毎週末のお約束

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毎週末のお約束

 紗菜は急いでいた。  学生鞄に、今日一日使った教材を詰め込む。机を覗きこみ、セーラー服もあちこち叩いて確認。よし、大丈夫、忘れ物はない。    「あの……紗菜」    後ろから、おずおず、といった声がかかった。穂波である。彼女の声を聞くのは三週間ぶりだった。紗菜は背を向けた。   「ごめん、あたし急ぐから」    彼女と会話をする気にはなれない。それに本当に急いでいたのだ。  早く帰って、課題を済ませる。夕食の前に風呂も済ませてしまおう。  そうすれば食後、たくさんの時間を持つことができる。  紗菜は街を走り抜けた。    今日の夕飯は、紗菜の好物ばかりだった。  肉豆腐、ホウレンソウのお浸し、レンコンチップス。肉豆腐には卵をからめて食べるととても美味しい。  すき焼きよりも、紗菜は肉豆腐が好きである。   『……それを、俺に聞かせてどうコメントしろっていうんだ』 「美味しそうでしょ? 美味しそうだな、って言えばいいと思うの」 『ああ、美味しそうですね。で、それがどうした。泣くほどつらい失敗料理でもあったのか』    紗菜は首を振った。電話の向こうにジェスチャーが届くわけがないが。   「ううん別に。特に話すことが思いつかなくて」 『だったら電話をしてくるな!』 「いつでもかけておいでって言ったじゃない」 『悩み事ができたらと言ったはずだっ。なんで俺が毎週末、見知らぬ女子高生と長電話しなくちゃならないんだ!』    叱られてしまった。が、紗菜は謝りもせずけらけら笑う。  こうして彼が叫ぶのは、もう三度目か四度目か。つまり紗菜が電話をかけるたび、毎回のように怒られているのだった。   『せめて起承転結、ヤマとオチ。俺が面白く聞けるように、話を作りこんでくれ。すこしくらい話を盛るのも会話術だろう。さては紗菜、あまり本を読まないな?』    それでも、いつもちゃんと付き合ってくれる。皮肉げな言い方も、紗菜は楽しくて仕方ない。  パジャマ姿でベッドに転がり、携帯電話を顔に当て、紗菜はクスクス笑っていた。   「バレた? そう。あたし現国が一番苦手なの。読解でいつも時間が足りなくなっちゃって」 『だったらなおさら、たくさん本を読みなよ。活字に慣れること。読む速度が上がればそのぶん考える時間が増える』 「はーい。ヒュウガさん、勉強できるのね。もしかしてホントに学校の先生だったりして」    彼は笑い声を上げた。   『そうだなあ、もしも俺が紗菜の担任になったらストレスで胃に穴が開くだろうな。こんなに出来の悪い生徒はいない』 「ひどいわ!」 『いや待てよ、1人いたぞ。そうだ俺だ。この間全教科零点とったんだ』 「えっ本当に?」 『ああ、時間が足りなくてね――俺のフルネームって長すぎてさ。ヒュウガ・パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン……えーとなんだったかな。まだ半分くらいなんだけど』 「やっぱり嘘だぁ」      からかいながら、ジョークも混ぜてくる。  ときにヒュウガは言葉遊びをする男であった。  紗菜はあまり、大人とオシャベリしたことがない。生活のなかで触れた大人は親と親族、それに教師など。  もちろんヒュウガも年上、『目上の人』という認識はあるが、不思議と緊張はしていない。  (電話って、不思議)  紗菜はそう思った。  おそらく二人が直接会えば、こんな風には話せない。  ヒュウガはきっと大人の男の顔をしている。並んで立てば、見上げるほど背が高いのだろう。怖い、と思うかもしれない。  しかし彼との電話はとても楽しい。吐き出したい悩み事など何もなくても、ただ彼の声が心地よくて、この時間がやめられない。   「ヒュウガさんって聞き上手だわ。こんな他愛のない話で、あたしすごく楽しいもん」    紗菜がそう言うと、呆れた嘆息が返ってくる。   『他愛ないと自覚があるなら、毎週毎週かけてくるんじゃないよ。せめてネタを仕入れてからにしな』    はあい、と素直にうなずいておく。ネタさえあればまた来週かけてもいいらしい。   (やっぱり、ヒュウガさんって優しい) (それとも彼も、この会話を楽しんでくれているのかしら?) (ほんの少しでも、あたしからのコールを楽しみにしていたりするのだろうか――)    もしも、そうだとしたら、とても嬉しいのだけど。    ふと紅潮してしまった頬を、手のひらで鎮める。  電話越しで良かった。直接対面していたら、この真っ赤な顔を見られてしまう所だった。  紗菜はホッとして、会話を続けた。   「ネタかぁ……あたし部活は入ってないし、趣味もないし。毎日そんなに変わり映えのある生活じゃないからなあ」 『華の女子高生が侘しいこと言うなよ』 「じゃあオススメの本を教えて。読んで感想をいうから」 『……地球博物学大図鑑』 「それ絶対あたしが読めないやつだ」    ははは、と笑い声がする。どうやら冗談だったらしい。  『だって俺の本棚で、君が読めそうなものなんて多くはないぞ。女性向けっていうのは……ちょっと待てよ。そうだな……』    少し、声のトーンが変わった。携帯電話を持ったまま、体を動かしているらしい。  腹圧でくぐもる吐息、衣擦れ、なにか物音。  立ち上がって、家の中を移動しているのだ。  そのことに、紗菜は不思議な感動を覚えた。  今、彼は電話の向こうで――いつも生活している部屋で、動いている。  携帯電話の中、声だけの存在ではない。ヒュウガは現実にいて、自分の寝室は、彼の部屋とつながっているのだと――紗菜は初めて実感した。    じきに、また彼が話しだす。   『うん、これならどうかな。中学の教科書に載ってる児童文学だけど、一人称でライトノベルに近い文体だ。作家が女性だし読みやすいだろう。あとは……そうだ、ファンタジーは好きか? なら読んでほしいものがあるんだ』    いつになく声がはずんでいる。  それは紗菜が、好きな食べ物の話をするのと同じ声音だ。   「ヒュウガさんは――その、ファンタジーが好きなの?」 『ん? まあ、映画から入るようなミーハーなもんだけど。現代ものならSFが多いかな。あとミステリーの短編とか……』 「ちょっと待って、メモを取るから!」    紗菜は慌てて、デスクからルーズリーフを取り出した。ペンを握ってドウゾと言うと、ヒュウガはなにか、とても嬉しそうに伝えてくれる。   『じゃあ読みやすそうなものから順に行くぞ』 「うん、うん」    頷きながら、彼の言葉を書き並べていく。  ジャンル、作品タイトル、作者名。  ヒュウガは途中で思い付いたものを追加して、十冊ほどのタイトルをあげた。  その物語の、どういったところが優れているか、自分はなにを楽しんだかも少しだけ。  紗菜はそのすべてを書きとめる。  これまでになく、ヒュウガの声をたくさん聞いた気がした。   『一週間で一冊は頑張って読むんだぞ。ズルをするなよ、感想聞けばわかるんだから』 「うん、ちゃんとやる。だから来週……」 『ああ、また来週』      別れ際の言葉は、次の約束をはらむものだった。紗菜が素直にうなずくと、満足げな声が返ってくる。   『おやすみ紗菜』 「おやすみなさい……」    そして、電話を切ったあと。紗菜はメモを読み返す。  ルーズリーフのいちばん上に、ちょっと大きめの文字を書いた。  図書館で探してくるリスト、と銘は打たなかった。 『ヒュウガさんの好きなもの』  そしてとても幸せな気持ちになった。
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