ヒュウガさんの好きなもの

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ヒュウガさんの好きなもの

 ヒュウガさんの好きなもの。    西尾維新。綾辻行人。ダニエル・キイス。  山よりは海。持ち上げられないくらいの大きな猫(メイクイーン?)。  歌はいろいろ聴くけどカラオケは嫌い。音痴ってわけじゃない。←嘘じゃない。  無香料の消臭剤。青色。トルコライス。  自宅から徒歩二分のパン屋さん。 『レジの女の子がすごくかわいくてね。彼女が入ってる曜日はすごく混雑するんだ』 「すごい、店員さんひとりでそんなにお客さんが増えるの?」 『ああ。愛想もよくて巨乳だから、男たちはみんな夢中だよ』 「なるほどねー」    紗菜は相槌を打ちながら、ペンを走らせた。  『巨乳』と書き取り、ヨシと頷く。  おい、とスピーカーから胡乱な声。   『君、俺のこと助平男と誤解したな? 俺はその店オリジナル、餃子チョリソーが目当てで行ってるだけだぞ』 「あらそうなの。ごめんなさい」    紗菜は素直に謝って、書きたての文字を二本線で消した。  シャッシャッ、とペン先が紙を引っ掻く音。   『……なあ、前から気になってたんだけど、俺と話し中、何か書いてないか?』 「ないしょ」    ヒュウガの問いをあしらって、紗菜はクスクス笑う。  そしてペンの音高く、『ぎょうざチョリソー』と書き込んだ。    彼とこうして、週に一度電話するようになって、もう三か月。  ページはずいぶん増えた。紗菜との会話で、ヒュウガは聞き手に回ることが多かったが、すこしずつ己自身のことを話してくれた。  好きな食べ物、本、映画、テレビ番組、タイトルのわからない歌のワンフレーズ。書き味のいいボールペン、空がいちばん素敵な色になる時間。  ぽつりぽろりと零れた情報は、紗菜のノートにすべて記されている。  ペンを置いて、紗菜はフウと息をついた。さっき書いたものを読み返し、クスリと笑う。 「なぁに、餃子チョリソーって。ヒュウガさん意外と悪食なのね」 『む、なんでイロモノって決めつけてるんだ。ホント、普通に美味いんだってば』  すねたようなヒュウガの声音。珍しく子供っぽい言葉遣いに、紗菜は大笑いした。 「絶対人気ないでしょ。買ってるのヒュウガさんだけなんじゃない」 『そんなことないって、うちの家族はみんな好物だ』 「じゃあ訂正、ヒュウガ家だけね」 『風評被害だ! いやほんと、疑う前に現物食ってみろ、いつ行っても売り場にあるから』 「やっぱり売れ残ってるんじゃないの。ふふ――そうね、試してみたい気はするけど。あたし、パン屋さんがどこにあるのかわからないわ」 『霞本駅の近所だよ、赤い屋根の小さな店』  一度、ふうんと聞き流し、いつものようにメモをとる。霞本駅の――そこで、手が止まった。 「――えっ!?」  思わず、紗菜は大きな声を上げた。ヒュウガは怪訝な声で聞き返し――そして、 『あっ。……』  と、小さく悲鳴を上げた。  紗菜は逃がさなかった。前のめりになり、電話越しに追及する。 「霞本駅ですって? 知ってる、すぐ隣町だもの。ヒュウガさん霞本町に住んでたの!?」 『いや……。……たまたま……旅行で』  「うそ、さっき家の近くって言ったわ。信じられない、子供のころ塾で通ってた。今も毎日通過する駅だわ。あたしたちこんな近くに住んでただなんて、どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」  叫んでから、ふと気づく。 「あれ? あたしも、霞ヶ丘町に住んでるって話したかしら……?」  ヒュウガは黙り込んでしまった。どうやら隠しておきたいことだったらしい。  彼はもともと、個人情報に口が堅かった。大学の話も濁すばかりで、学部すらも知らなかった。彼が気軽に話してくれるのは趣味嗜好、ちょっとした生活習慣に留まっている。家族構成もなにも知らない。尋ねてみても教えてくれない。  紗菜は半ば無意識に、彼を、とても遠いところにいるひとと思い込んでいた。外国のような、あるいは異世界のような、ずっとずっと遠くの人だと思っていた。年齢も環境もかけ離れた、決して交わることのない人だと感じていた――  だけど―― 「ねえ、ヒュウガさん。……会ってみない?」  紗菜は言った。  ヒュウガは答えた。 『…………どうして。今まで通り、電話でいいだろう』 「直接会えば、また違う話が出来ると思うの……」 『変わりゃしないよ。それに俺、けっこう忙しいヒトなんだ』 「カノジョがいるの?」  電話の向こうで、ぶっ、とヒュウガが吹き出す音。 『なんだよ唐突に! いたらソッチと電話してるよ』 「そうなんだ」   ホッ、と胸をなでおろす。同時に幸福感があふれた。恋人同士のようなことを、あたしたちはやっているのだと実感する。  紗菜はノートをめくり、新しいページに、ペン先をピタリとくっつけた。 「ねえヒュウガさん、どんな女の子がタイプ?」 『……週末だからってこんな時間まで起きてる不良、ではない子』  言われて時計を見上げると、夜の九時。不良呼ばわりされるほどとは思えない。  中学生じゃないんだからと言い返すと、ヒュウガは呆れた声を出した。 『そりゃ、これがクラスメイト同士ならいいだろうけどね。顔も知らない男が相手と知れたら、お父さんは泣くんじゃないのか』 「じゃあ顔を見せてよ」 『そういうことじゃない』 「そうだ、写真を送って! 自撮りっていうやつ……あたしやり方わからないけど」 『だめ』 「変なことに使わないわ。あたし信用ない?」  強い口調で、紗菜は言った。一瞬の間。やがて、ヒュウガが返事をくれる。 『いいや。……でもほんと、ご期待に添えるようなイケメンじゃないんだよ。俺のことを知ったって、なんにも楽しいことにならない、紗菜はガッカリするだけだ』 「そんなの別に、期待してないわ」  と、即答はしたものの、少なからず期待している自覚があった。  ヒュウガの声は低く、少しかすれていて大人っぽい。頭が良くて優しくて面白くて、きっと友達が多いだろう。モテるだろう。その印象から、無意識に好青年のビジュアルを想像してしまっている。  一応、そのイメージは打ち消すよう努力してみる。だが上手くいかない。  当然だ、紗菜はまだ彼のことを、なにも知らない。  その顔立ちも、体格も、フルネームすらも聞いたことが無い。「ヒュウガさんの好きなもの」メモはずいぶん増えたのに、まだまだ足りない。  ヒュウガ自身のことをもっと知りたい。  紗菜は改めて彼を誘った。 「ヒュウガさん、会おう。せっかくすぐ近くに住んでるんだもの。駅で待ち合わせて、オシャベリしながらお茶をして……ううん、顔を見せ合うだけで……それだけでいいから」 『……紗菜』  ヒュウガは静かに、呟く。   それからの沈黙は長かった。言いたいことを言いあぐね、彼は言葉を探していた。  無言の時間はこれまでにない長さになり、その末、彼は言う。 『……紗菜。お前、女の子なんだぞ』  これまで聞いたことのない声だった。
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