第16話 夏空に、朝顔

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第16話 夏空に、朝顔

「嘘だぁ、だって従兄弟だよ? いとこ同士は結婚も……」 「だからぁ、いとこ同士は結婚できるって言ったでしょう? それともやっぱり俺は従兄弟だから千夏の恋愛対象にはならないってこと? それなら……仕方ないからあきらめるよ」 「違っ、そういうことが言いたいんじゃなくていとこ同士の結婚はダメだって、血が濃すぎるからって」  頬に添えられた手はそのまま動くことも無く、蓮ちゃんはじっと我慢強くわたしの言葉を待った。 「誰が? おじちゃん? おばちゃん?」 「違うの、あの……」  遠い日のことを思い出す。蓮ちゃんのお嫁さんになると言っていた日のことを。あの時、そんなわたしをたしなめたのは。 「おばあちゃんが、『蓮ちゃんはダメだよ。いとこ同士は血が濃すぎるからね』って言ったの」  そういうことか……、と蓮ちゃんは深くため息をついて、昔はおばあちゃん怖かったもんな、と弱々しく笑った。 「うちの母さんもさ、おばちゃんはおばあちゃんに泣かされてるってよく心配してたよ」  そうだったんだ……。小さい頃のわたしは言われた言葉を鵜呑みにしてしまっていたんだ。  解けてしまった魔法はするするとわたしの心も自由にして、ようやく息苦しさから開放される。 「あのさ」 「うん」 「この姿勢、けっこうキツい」 「……どうしたらいいの?」 「何か言ってくれるとか、そういうのはないの?」  うーん、と考えてる間に蓮ちゃんの片膝がそっと座卓の上に……。 「蓮ちゃん! お行儀」 「この際、お行儀はいいかと思って。おばあちゃんのこと以外に問題ない?」 「……ない」 「じゃあ少し抱きしめさせて」  決してきつく抱きしめられたわけじゃなかった。けれど、胸がきゅーっと苦しくなった。好きな人が自分を好きになってくれるということが、苦しいことだと知らなかった。わたしは今まで相当ぼんやり生きてきたのかもしれない。  もしくは。  蓮ちゃん以外の男の子のことを、今まで考えたことがなかったのかもしれない。 「俺の帰ってくるところ、まだここにある?」 「あるよ、ここでいいなら」 「よかった」  耳に、蓮ちゃんの吐息がかかって、やわらかな唇の感触がした。  わたしはその日もストラップの細い例のサンダルを履いた。玄関でそれを見ていた蓮ちゃんが、にっこり笑った。それだけで胸がいっぱいになった。 「もう靴擦れはさせない」 と言って、普段わたしは使わないバスに乗った。あんなに暑い日にこの距離を歩いたなんてバカげてると、二人で笑った。  本屋に行くとまだあの小説は平積みされていて、相変わらず夏休み終わり間近に公開、という例の映画の帯が付いていた。蓮ちゃんはこういう人がタイプなのか……と思って改めてじっと主演女優を見る。小顔だったり……もう個人的な努力でどうにかできる問題ではないと思って本を戻す。 「そんなに読みたいの?」 「ううん、映画の帯を見てただけ」 「あのさぁ」  蓮ちゃんは目線を上に逸らせて独り言のように一思いに言った。 「映画見に行こうって行ったのは、帰ってからも会いたいって意味だったんだけど」 「え? あ……うん。でも蓮ちゃん、バイト大変だって」 「1日も休みが無いわけじゃないでしょう? たまにはうちの方にも遊びに来ない? ゴミゴミしてうるさいし、広い家もないけどさ。映画館はあるし、スタバにフラペチーノもあるよ」 「あ、はい……。行ってもいいなら」 「正月に来るまでに、今までよりもっと会いに来ようと思うけど。おじちゃんもおばちゃんもいるしね。たまには外もいいでしょう?」  赤くなって死んでしまうかと思った。  こんな日が来るなんて思ってもみなかった。夏と冬以外に、蓮ちゃんに当たり前に会える日が来るなんて……。 「蓮ちゃん、好き」  少し背の高い蓮ちゃんがわたしを見下ろす。わたしは顔を上げられない。また熱が出たのかもしれない。体がやけに熱い。 「バカだなぁ、こんなとこで言わなくたって。さすがにこんなとこじゃ抱きしめられないよ」  それはそうだ。わたしたちはずっと本屋の一番目立つ平積みコーナー前で話をしていたんだから。そしてもう「ただの従兄弟」という言い訳は通用しなくなったんだから。 「コーヒー飲もう。プラス100円で約束通りホイップ乗せてあげるから、他の男に釣られるなよ?」  靴擦れはできなかった。  わたしの数学の宿題は先生が良かったのですっかり終わってしまった。  夜10時を過ぎると、薄い壁越しにLINEをして、くだらないことばかりお互いに送り合った。そんな時、たまに向こうから笑い声が聞こえる時もあった。壁の向こう側の彼を、間近で見たいと思うことも多かった。  貴重な日にちは瞬く間にすり減った。 「お世話になりました。じゃあ、また来るね。行ってきます」  来た時と同じようにチビたちが「蓮ちゃーん」と呼んで手を振った。蓮ちゃんも一度振り向いて手を振り返した。  わたしはバス停まであえて送らなかった。またすぐ会えるからと、二人で決めたことだ。千夏は鈍いから浮気の心配はいらないな、と蓮ちゃんは笑った。  濃い紫の朝顔の花が、抜けるような青い空にパッと咲いていた。まるでそんな二人のことなどお構い無しだと言うように。 (了)
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