第15話 手の届く範囲

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第15話 手の届く範囲

 ようやくみんなとご飯が食べられるようになって、夕食の席で宿題の話になった。  千早と千紘はお母さんの厳しい指導のもと、夏休み中に終わる見込みだという話だった。蓮ちゃんはあと少し残ってるけど終わるはずだと言い、わたしの話になった。 「千夏、ヤバいの?」 「数学が……ちょっとね」 「蓮ちゃん、見てやってくれない? この子、本当に数学は赤点ギリギリなの。わたしじゃもう高校生は教えられないし」 「いいよ、明日やろう」  こんなことで蓮ちゃんの貴重な夏休みを減らしてしまうなんて、あらゆる意味でわたしはバカだと思った。高校生にもなって自分で宿題もできないなんてどうかしてる。友だちに聞くという手もあったけど、確かに蓮ちゃんに教わるのがいちばん効率がいい。 「ごめんね。よろしくお願いします」  気にすんなよ、といつもの通り、蓮ちゃんは答えた。  自分でもできるところは少しは進めておかないと、と思って英語のプリントを進めていた時に小さくドアがノックされる。 「はい?」  夜10時を過ぎていた。お父さんはこんな時間に起きてたり、騒いだりするのを好まない。 「ごめん、ちょっと」 「うん」  音を立てないようにそっとドアを閉めて、蓮ちゃんは部屋に入ってきた。 「悪いんだけど、シャー芯、切れちゃって」 「ああ、いいよ。多めに買ってあるし」  机の引き出しを開けて、新品のケースを取り出し渡す。 「わたし、Bだけど大丈夫?」 「何でもいい。すごく助かる。今日の分が進まないと後につかえるから」  やっぱりあれだけノートを買うくらいだから、毎日コツコツやらないと、宿題、進まないんだなぁと思う。わたしが邪魔をしていなかったか心配になる。 「千夏の宿題は明日、手伝うよ」 「でも蓮ちゃんも大変なんじゃないの?」  帰ったらバイトも多く入るってこの前話してたじゃない? 「千夏の宿題くらいならすぐできるよ。どれ? お、うちの高校と問題集同じ。丁度いい」 「あー、どおりで難しいと思った。そんなの余計できる気がしない」 「よかった、同じなら去年やった問題だから無理なく教えてやれるよ」  あんまり無理しないで早く寝ろよ、と人のことを言えないくせにそう言葉を残して、蓮ちゃんは隣の部屋に帰って行った。  翌朝はご飯の片付けをし始めると蓮ちゃんが、 「おばちゃん、和室に座卓出してもいい?」 と聞いた。  この間のお盆のように親戚がたくさん来たりすると居間から人があぶれる。そういう時、普段は何も置いていない和室に座卓が登場して、イッちゃんたち従兄弟やら蓮ちゃんやら、子供たちは和室に入れられる。  座卓も使われてしまわれたばかりだった。 「座卓? いいけど、千夏の部屋でやれば?」 「一応、女の子の部屋だし」  まあね、とお母さんは笑ったけど、いつも気兼ねなくするすると入ってくるのに今さら何を言っているんだろうと思う。 「蓮ちゃん、じゃあここで良くない? わざわざ座卓出さなくても」 「ここはチビたちも宿題やったり、遊んだりしてるだろう?」  確かに、ということでとりあえず用意をするように言われて部屋に道具を取りに行く。  戻ると和室にはすっかり座卓が用意されていた。とりあえず、座布団に座ってノートと問題集を開く。回答集があっても、どうにもわからない問題が何題かあった。 「よく逃げなかったな、感心」  わたしの背中を通って、蓮ちゃんはわたしの対面に座った。器用に、上下逆向きに問題を読んでいる。 「そっちだと読みにくくない?隣に来れば?」 「大丈夫だよ、わかんないのどこ?」 「二次関数……」  さっきまでやわらかかった蓮ちゃんの顔が急に難しくなる。前にもそんなことがあったので、わたしは自然、固まる。 「お前さ、高校入試の時も二次関数できないって、冬休みに教えたんじゃなかった? 苦手意識持つからできなくなるんだよ、まったく」  ごめんなさい、と小さな声で謝る。いいよ、といつものトーンで今度は返事が返ってくる。 「わからないところに付箋貼れよ」  おそるおそる貼ると、思っていた通り、問題集にはピンクの縁取りができた。 「これじゃあ帰れないよ」 「え?」  ついうれしそうな声を出してしまい、その後に蓮ちゃんに迷惑をかけていることを反省する。  とりあえず、自分のノートにグラフを書くところから始める。関数はグラフを書け、というのは蓮ちゃんの教えだ。  x軸とy軸、原点を取って、y=……。  ふっと目を上げる。  蓮ちゃんは頬杖をついていた。でも見ていたのはわたしのグラフを書く手元じゃなくて、わたし……。 「どうした? 続けなよ」 「うん……」  上に凸のグラフと、それを斜めに横切る一次関数の直線を描いた。 「蓮ちゃん、描けた」 「うん、合ってるよ」  まだ頬杖をついたまま、わたしの顔をぼんやり見ている。蓮ちゃんにわたしの風邪がもしかしたらうつって、熱があるんじゃないかと心配になる。 「蓮ちゃん?」 「ごめん、ダメだ」 「え、何が? グラフ間違ってる?」 「違う、そっちじゃない」  今度は両手で顔を覆って何か考え事を始めたかと思うと、じっと、こっちを見た。 「この座卓、小さい頃はもっと大きいと思ってたんだけど、小さかったんだな。簡単に届いたらダメなんだけど」  蓮ちゃんはゆっくり腰を浮かせると、わたしの頬にそっと触れた。そうして、わたしは別に泣いているわけじゃないのに頬を指で撫でた。  静かな時間だけが二人の間を通り過ぎて、それは速いようにも遅いようにも思えた。 「嫌われちゃったらもう会いに来られないと思ってずっと言わないでおいたんだけど」 「うん」 「千夏が好きなんだ。もうずっと」 「だって、蓮ちゃん、彼女いるじゃない?」 「……いないよ、悪かったな」 「だって電話してたじゃない、楽しそうに、わたしなんて『ただの従姉妹』だって」  しん、と音が聞こえなくなって、まいったな、と彼は言った。 「お前、聞いてたの? ……友だちだよ、見栄張ろうかと思ったけど張りきれなくて。千夏を彼女だって言いたかったけど、嘘はつけなかったんだよ」 「会う約束してたじゃない」 「あー、お前と同じ。数学の宿題教える約束してるんだよ。だから先に終わってないとまずくて焦ってるんだって」 「友だち? ……男の?」 「そう。意外と疑り深いな」  頭の中の整理をしなければならなくなる。蓮ちゃんの男友だちに宿題を見せる約束をしてて、電話の相手はその友だちだった。それで、蓮ちゃんは……。つまり……。
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