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廊下の突き当たりで、俺が左右のどちらへ行こうか迷っていると、右奥から夏奈子が駆けて来た。
「夏奈子、無事か!?」
「はい!石井さんは反対の方へ行ったようです!」
「夏奈子、逃げるぞ!」
「だめです!石井さんを放ってはおけません!」
夏奈子は止まる事なく俺の脇を走り抜けた。
「おい!」
俺は慌てて彼女を追い、やっと腕を掴んだのは、廊下の角を曲がった直後であった。
そこで俺達が見た光景は、全身にくまなくチェーンを巻き付けた大男と、それと対峙する石井の姿であった。
チェーンの隙間から覗く目は五つ、明らかに人間ではなかった。
たじろぐ俺の前で、石井は大きく踏み込み、横一文字に刀を薙いだ。
振り抜い刀を、化け物は難なく飛び越えた。
「なっ!?」
大男は鎖の重量を無視しただけでなく、常識をも無視して天井に張りついた。
そして、そのまま天井を這うようにし、こちらへと向かってきた。
「ヤバイ!」
俺は無我夢中で夏奈子の腕を引き、すぐ脇の客室へと飛び込んだ。
化け物が部屋に来ないように祈りつつ、固唾を飲んで廊下の気配をうかがっていると、チャラチャラという鎖の擦れる音が部屋の前を通り過ぎ、遠ざかっていった。
ついで、廊下から「うわあぁぁ!」という石井の悲鳴が聞こえた。
俺達が廊下へ飛び出すと、石井の身体は腹まで腐泥門に浸かり、なおも沈みつつあった。
「石井さん!」
夏奈子は走り、まだ泥から出ていた石井の裾をギュッと踏み込んだ。
石井の沈降は腰の深さで止まり、駆け寄った俺は、屈んで石井と目線を同じにした。
「危機一髪だったな。夏奈子がいなきゃ、オッチャンは今ごろ泥の中だ」
「僕の事はいいんです!鬼を斬り損ねてしまった!沙恵のところへ行ったに違いありません!」
「大丈夫だ。美奈と一緒に逃げてるはずだ」
俺がそう答えた直後、旅館の中に美奈の悲鳴が響き渡った。
「なんだ!?美奈の奴、まだ中にいたのか!くそっ!」
俺は石井に向かって手を差し出した。
「無理です!僕を引き抜けない!腐泥門が閉じるまで一刻は掛かる!」
「違う!冥府刀の方だ!」
「え?」
「早く!娘を助けたいんだろ!」
「は、はい!」
石井は慌てて刀を差出した。
その柄を握ると、俺の足下にはたちまち肩幅大の泥沼が現れた。
「望月さん。私が裾から退けば、石井さんは沈んでしまいます。腐泥門が閉じるまで、私も裾から離れられません。大丈夫ですか?」
夏奈子が心配そうに言った。
「ああ、向こうで美奈に踏んでもらうさ」
俺はそう答えると、バシャッと泥を跳ね上げ、駆け出した。
足下の泥沼はどこまでも俺にまとわりついてきた。俺は足を踏み下ろす度に、そのネトリと腐敗した泥の感触に鳥肌がたった。
俺はまず自分の部屋へ行くと、バッグの中から青色の浴衣を取り出した。そして、肩に掛けるようにして袖を通す。
この浴衣の特徴とも言うべき扇形の裾が床の上にちゃんと広がっている事を確認し、俺は裾をマントの様に翻して部屋を飛び出した。
倒れている美奈を見つけたのは、旅館のロビーであった。
「美奈!」
俺が駆け寄り、美奈の肩を揺すると、美奈は薄く目を開いた。
「たくろう……」
「大丈夫か!?怪我は!?」
美奈は俺の顔をぼんやりと眺めていたが、不意にその目を大きく見開くと、跳ね起きた。
「沙恵ちゃんは!?」
「落ち着け!ここでいったい何があった?」
「私、沙恵ちゃんと建物から出ようとしていて……そしたら、後ろから銀色の鎧を着た大男が追ってきたのよ」
「あれは鎧じゃない。鎧に見えたかもしれんが、あれは体中に巻き付けた鎖だ」
「見間違えのままにして欲しかったわ!最悪な変態じゃない!」
「まあ、鬼だから、人間の常識を当てはめても仕方がない。それで、そいつが追ってきて、どうなったんだ?」
「そいつに突飛ばされたところまでしか覚えてないわ。沙恵ちゃん、もしかしたら、もう……」
「いや、美奈の悲鳴を聞いてから、そんなに時間は経ってない。たぶん、まだ近くにいるはずだ」
そう言った直後、俺の言葉を裏付けるように、「きゃあぁああ」という悲鳴が旅館の外から聞こえた。
「ほらみろ!さあ、行くぞ」
「行くって!?だって、相手は鬼よ!?」
「この格好が見えないのか?美奈さえ裾を踏んでくれれば、俺は奴を斬ることが出来る。走れるか?」
「ああああもう!走るしかないでしょ!」
「よし、行くぞ!」
チェーンの化け物と沙恵は、旅館の玄関を出た所から数十メートルばかり先にいた。沙恵は大男の脇に抱えられており、宙に浮いた足をばたつかせていた。
俺は、後ろを走る美奈に叫んだ。
「ヤバイ!美奈、このまま突っ込むぞ!」
「突っ込むって!?裾はどうするの!?止まってくれなきゃ踏めないわ!沈むわよ!」
「鬼は動いているんだ!止まっている時間なんて無い!俺が斬ってから踏んでくれ!完全に沈むまで数秒の余裕はある!その間に踏めば、沈降は止まる!」
「分かったわ!そうする!」
「頼んだ!」
裾は美奈に任せる事にし、俺は前方に意識を集中させた。
近づくにつれて、沙恵の身に迫っている危険が分かった。それは、チェーンの化け物から伸び、沙恵の身体に幾重にも巻き付いている鎖であった。
その鎖は、まるで蛇のように蠢いており、沙恵の身体をその内に包み込もうとしていた。
あれがあの鬼の喰い方だ、俺はそう直感し、沙恵は今まさに喰われようとしているのだと理解した。
「させるか!!!」
俺は腐泥門の泥を足裏でより強く掻き、一気に距離を詰めた。
冥府刀を振る事が出来るのは一度だけだ。一度振ると、俺は泥に沈み、身動きがとれなくなるだろう。もし斬り損ねたら、俺は沙恵が喰われるのをただ眺める事になるのだ。
(失敗は許されない)
俺はギリギリまで鬼に近づくと、渾身の力で冥府刀を振り下ろした。
鬼は沙恵を喰うのに気を取られていたらしく、刃は呆気なく鬼をとらえた。
刀は火花を散らして表面を覆っている鎖を断ち、深々と肉を裂き、噴き出した血に押し出される様に鬼の体外へ抜ける。
(やったか!?)
黒い血が目に入らぬよう、俺は瞼を細めて鬼の様子をうかがった。
だが、鬼の生命力は尋常ではなかった。
鬼は叫び声を上げ、一旦取り落とした沙恵を担ぎ上げ、走り出した。
「くそっ!」
もはや沙恵を助けるチャンスは二度と無かった。
「ちょっと!何、ぼさっとしてるのよ!早く追いなさいよ!」
「え?」
振り向くと、鬼が逃げ去った方を美奈が指差していた。
「え?」
俺が自分の足元を見下ろすと、刀を振る前と何ら変わらず、くるぶしまでしか沈でいなかった。
刀を使っても沈み込まない条件は、裾を踏まれている状態で振る事だ。つまり、美奈は俺が刀を振り下ろした時、裾を踏んでいたのだ。
言葉では簡単なことだが、実際にやるとなると神業でしかない。俺は走って鬼に近づいていたのだ。少しでも早く踏むと、俺の足を止めてしまう事になる。その場合、切っ先が届かなかったり、最悪はバランスを崩し転倒ということもある。
だが、俺はそうはならなかった。美奈が俺の裾を踏んだのは、刀を振り下ろすため、わずかに足をとめたその瞬間だったのだ。並大抵の運動神経で出来る事ではない。
「だから、ぼーとしてないで追いなさいよ!そんなんだから倒せなかったのよ!今のは偶然上手く踏めたけど、次は無理だから、一発で仕留めなさいよ」
美奈はそう言うと、俺の肩を後ろからパーンと叩いた。
「次はしくじらない」
俺は顔にベッタリとついた黒い血を拭い、再び走りだした。
鬼は傷を負っているうえ、沙恵を担いでいるため、その足は遅かった。俺はすぐに鬼に追い付き、剣先を鬼の背に向け、そのまま体ごと突っ込んだ。
刀身はつばまで深々と鬼の背に埋まり、鬼は堪らず沙恵を地面に落した。
鬼は沙恵を拾う動作で前屈みとなり、グラリと揺れると、そのまま倒れた。
鬼の生死を確認したいところだったが、今の俺にその余裕はなかった。
なぜなら、俺の体はくるぶしから膝、膝から腰へと徐々に泥沼へ沈んでおり、止まる気配がなかったのだ。
「お、おい、美奈!?」
俺が首をねじって振り向くと、美奈はだいぶ離れた地面に座り込み、膝を痛そうにさすっていた。
「何やってんだ!?」
「転んじゃった……てへ!」
美奈はばつの悪さを誤魔化すように舌を出した。
「テヘじゃない!早く踏んでくれ!沈む!」
「分かってるわよ」
美奈は立ち上がると、無事な方の片足でピョンピョンと跳びながら近づいてきた。
俺は泥沼に沈みながら、地面に残された裾が短くなっていくのを戦々恐々としながら見つめた。
そして、泥が俺の胸まで迫り、地面に残った裾の端が今まさに腐泥門に飲まれようとした時、美奈のつま先が裾を踏んだ。
「おい!シャレにならねえぞ!後わずかで俺はオダブツだった!」
「何よ、文句言うなら裾から退いちゃうからね」
「むっ……」
そう言われては、これ以上何も言えるわけがない。今の俺は、美奈の力があって、辛うじてこの世に留まっているのだ。俺は不平不満をぐっと抑え、倒れている沙恵へ視線を移した。
「おい!沙恵!大丈夫か!?」
俺は大声で呼び掛けるが、沙恵はぴくりとも動かなかった。そばに行きたくとも、俺も美奈も動ける状態ではなかった。
「たぶん、大丈夫よ。気を失ってるだけだわ。胸が上下してるから生きてるわ。それより、鬼は仕留めたの?」
「ああ、手応えはあった」
「本当?」
「だ、大丈夫だと思う」
俺が不安を抱えながら地面に倒れている化け物を観察していると、突然、その体から煙が吹き上がり、あっという間に灰になってしまった。
俺はホッと息をついた。
「ほらみろ。きっちり仕留めてただろ?」
「ふん、不安だったくせに。後ろから見てると分かるのよ。肩が震えていたわ。さてと、あんた、そこから出れる?」
「いや、一刻の間は出られないらしい」
「一刻って?」
「二時間だな」
「じゃあ、しばらくこうしてなきゃいけないのよね?あんた、何か面白い話をして」
「なんだ唐突に?片足どころか胸まで棺桶に突っ込んでいる俺に楽しい話なんて出来るわけないだろ。何で、お前を楽しませなきゃならない?」
「当然でしょ。私、徹夜で章介さんの裾を踏んでいたのよ。私が眠くなったらどうするのよ?呪術が解けるわよ?いいの?とびっきり面白い話じゃないと寝ちゃうから」
「わ、わかった、じゃあ、俺のとっておきのジョークを一発」
「グー」
「聞く前から諦めるなよ!」
こうしてここに、俺の本日二度目の闘い(敵は睡魔)が始まったのだった。
以上が、俺が冥府刀を手にするまでの話である。この日以降、俺は不本意ながらも、鬼との戦いに身を投じることになる。
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