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ギリッ!
俺は奥歯を噛みしめ、顔面の痛みとは比較にならないその痛みに耐えた。そして、手の甲を貫通している血に塗れたナイフを見ないようにしながら、泥をまき散らして足裏を新婦に放った。
新婦は虚ろな瞳に似合わぬ俊敏な動きで後方へ跳び、俺の足は空を蹴る。
ナイフの引き抜かれた甲からは血が噴き出し、背後から夏奈子の悲鳴が聞こえた。
「もう、ダメです!」
夏奈子は俺の前に飛び出し、ナイフを握る新婦と、涼しい顔でこちらを見ている鬼に向かって両腕を広げた。
「退きます!もう、干渉しませんから!これ以上望月さんを傷つけないでください!」
夏奈子の叫びに、鬼は首を傾げた
「そうかい?僕が新婦を食べちゃってもいいの?」
「構いません」
「ふーん、そう?だったらいいよ。逃げても。僕は寛容なんだ」
鷹揚に答えた鬼に対して、俺は「くそくらえ」と毒づいた。
「なんだって?」
「くそくらえだ……つまんねえ事で沈みたくねえから、腕を犠牲にしたんだ……テメエを斬るためだ」
「君は本当に馬鹿だな。腐泥門のハンデがある限り、君は僕らを絶対に倒せない」
鬼の言葉に、夏奈子が無念そうに「その通りです……望月さん」と同調した。
「望月さんがこれ以上戦うと言うのなら、私は『裾踏留め』で望月さんを動けなくします。もう、お願いですからやめてください」
夏奈子の協力が得られなければ、俺はこれ以上戦う事はできない。
無念であったが、どうしようもない。俺は冥府刀を握った手を、力なく落とした。
そして、屋上には沈黙が訪れた。しかし、その沈黙はこの場の雰囲気に似つかわしくない声によって破られた。
「お客様!まだ、諦めてはいけません!」
目を向けると、給仕服姿の真紀が屋上の出口付近で仁王立ちになっていた。そして、真紀はこちらに向かって駆け出し、あっという間に新婦へ迫った。
「やれ!」
鬼の命令によって新婦はナイフを繰り出した。
真紀はそれをかいくぐり、風のような素早さで新婦の後ろに回り込むと、赤いドレスの裾を踏み込んだ。
「完了でございます。お客様、心置きなく戦ってください」
「え?」
「理解の悪い客ね」
真紀が呆れ顔となり、その口調が変わった。
「新婦はもう動けない。つまり、あなたが相手にするのは、あの鬼一匹よ。もう、新婦に襲われる心配はないわ」
「お前……裾踏姫か」
「それはまた後で話すわ。今は鬼に集中して」
「言われなくたってやる。夏奈子、無理に踏まなくていいぞ。敵は一匹になった。俺が奴を仕留めてから踏んでくれ」
俺は夏奈子の返事を待たずして、単身、鬼に向かって駆け出した。
鬼は分が悪いと判断したのか「そんな泥んこの足場では追い付けないさ!」と言い捨て、屋上の出口を目指して走り出した。
鬼の言う通り、俺は鬼からみるみる引き離された。
(逃がしちまう!)
しかし、鬼は出口の手前で突然立ち止まり、それから、後退し始めた。
(罠か?)
鬼の行動を不審に思った俺は、その場に立ち止まり、刀を構えた。
そして、鬼が立ち止まった理由がわかった。
鬼が入るのをためらった出口、そこから一人の男が姿を現したのだ。その男は俺と同年ぐらいで、髪は短く、鼻筋の通った男であった。そして、男は異常に長い茶色のレインコートを身にまとい、手にはナギナタを握っていた。
まさかと思い、俺が男の足下を確認すると、男は泥の上に立っていた。
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