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俺と美奈は鳥居近くのベンチに座っていた。人混みの中を草履で走ることができたのは二十分程度が限界で、美奈はベンチに座ったまま動こうとはしなかった。
人々の楽しげな声と発電機のエンジン音に混ざり、俺の耳には『好き、嫌い、好き、嫌い……』という美奈の呟き声が聞こえていた。
美奈の中では縁結びの魔力と正気が壮絶なバトルを繰り広げているのだろう。
俺はその決着がつくのを、コーヒーを煎れるような気持ちでゆったりと待った。
やがて、美奈は力尽きたかのように首をカクンと垂れ、倒れ込むようにして俺に寄りかかってきた。
「落ちたか……」
俺が美奈の顔を覗き込むと、彼女はうっとりとした表情で目を閉じていた。
もはや、美奈が自力で正気に返ることはないだろう。俺は労せず美女を手に入れたのだ。俺は肩にもたれかかる彼女の香りを、ゆっくりと楽しむことにした。
「あれ?有賀じゃないか?」
悦に入っていた俺は、その声によって視線を上げた。
ベンチの前に立っていたのは洋服姿の男子で、髪は茶色、日焼けした顔は目鼻立ちが整っていた。美奈の言っていた小池の特徴と一致していた。
「茶髪のイケメン……まさか、小池か?」
「え?はい、そうです。もしかして、有賀の彼氏ですか?」
「一応な」
俺がそう答えると、小池は目をまん丸くし、それからニヤニヤと笑いながら美奈を見下ろした。
「へぇー、有賀にもついに彼氏ができたか。これは部の奴らに報告しなきゃだな」
小池は美奈をからかったが、美奈はそれに対して何の反応も示さなかった。
あれ程探していた小池がすぐ目の前にいるにも関わらず、美奈はうっとりと目を瞑り、俺に寄り添ったままであった。
小池はそれを見て、額に手を当てて叫んだ。
「うわー、日頃の有賀からは想像できない姿だよ!」
小池は本当に驚いた様子だ。
「普段はどんな感じなんだ?」
「元気ですよ。部活の時なんか常に走り回っています。あの有賀がこんなになっちゃうなんて、よっぽど貴方が好きなんですね」
小池の言動からは、俺に対する嫉妬のようなものは微塵も感じられなかった。
つまり、美奈の恋は完全な片想いで、小池の方は美奈を異性として意識していなかったことになる
美奈はそれを知っていたからこそ、指輪の力で縁結びのご利益を増幅させ、小池と結ばれようとしたのだろう。
俺は納得しつつ、小池を見上げた。
「ちょっといいか?美奈はなんの部活に入ってるんだ?」
「え?知らないんですか?」
小池は呆れたような表情になり、溜め息をついた。
「まったく、いくらサッカーに興味がないからって、彼氏には話せよな」
しかし、それに対しても美奈は何の反応も示さず、小池は苦笑して俺に視線を戻した。
「有賀はサッカー部のマネージャーしてるんですよ。中学の時からやってるから、かれこれ5年になります。でも、有賀は未だにサッカーのルールが分からないんですよ。だから、サッカーに興味があってマネージャーをやってるんじゃないと思います。部内ではもっぱら、誰か好きな男子がいるんじゃないかって噂だったんですけど、貴方みたいな彼氏がいたとなると違いますね」
「……サッカー部のマネージャーってのは、きついのか?」
「ええ、選手ほどではないですけどね。有賀は日焼けするとか、休みが無いだとか、よく文句を言っていますよ」
「……分かった。ありがとう」
「あの、じゃあ僕行きます。友達が待ってるし、あまり二人の邪魔しちゃ悪いから。有賀、また部活でな!」
小池は美奈に向かって元気よく手を振ると、こちらに背を向けて走って行った。
俺は小池を見送た後、隣の美奈へ視線を移した。
彼女が小池のためにサッカー部のマネージャーを始めたことは容易に想像できた。美奈は中学の3年間と高校の2年間、小池を見るためだけに、つらいマネージャーの仕事をしてきたのだ。
5年もの間、ただ一人を想い続けるのに、どれ程のエネルギーが必要なのか俺には分からない。分かることといえば、もう美奈にはその気持ちを伝える機会が無いという事だけである。
こうなってしまったのは俺が何かをしたからではなく、裾を踏んでしまった美奈の自業自得である。だから、俺が気に病むことではないのだが、罪悪感めいたものが心に広がるのは止めることができなかった。
「くそっ……5年かよ」
俺は一人毒づいた。美奈の想いの強さを知り、手放しでは喜べなくなってしまったのだ。
しかし、だからといって、美奈に小池の裾を踏ませる気にはとてもなれなかった。そもそも、例え踏ませようとしても、小池は洋服であり、踏ませるための裾などなかったのだ。
俺に出来る事は何一つない。俺は自分にそう言い聞かせ、納得させた。俺はもやもやした気分を変えるため、美奈を誘って縁日を楽しむ事にした。
「美奈、ちょっと……ん?」
そこで初めて俺は、自分の腕が美奈の肩に回されている事に気付いた。そして、その腕が、自分の思うように動かない事に動揺した。
「まさか……縁結び効果か?」
当然といえば当然である。美奈だけが俺に惚れたのでは、それは縁結ではない。二人がお互いに惚れあってこその縁結びなのだ。
つまり、縁結びの御利益は、今度は俺に干渉し始めたのである。
「冗談じゃない!」
俺は必死になり、なんとか美奈の肩から腕を解く。
美奈と結ばれるのは大歓迎だが、意思を操作され、自由を封じられるのは真っ平御免であった。それは、自分の人格さえ変えられてしまうという事であり、とても容認できる事ではない。
「おい!美奈、立て!」
俺はベンチから立ち上がり、美奈の肩を揺さ振った。
「なーに?ダーリン?」
美奈はうっとりとした目を俺に向け、これ以上ない程の甘ったるい声で返してきた。
「とにかく立て!」
「あー、わかった。チューね?もう、せっかちなんだから」
美奈はクスクスと笑いながら立ち上がり、俺に向かってわずかに顎を上げ、目を閉じた。
俺はその瑞々しい唇を、奥歯を噛み締めて強引に無視し、美奈の頬を両手でぎゅーと引っ張った。
「目を覚ませ!まだ正気は残ってるんだろ!?小池を思い出せ!お前の5年間の想いはそんな物なのか!?」
「ほひゃ!?」
「御利益に負けるな!」
俺はさらにグイグイと頬を引っ張った。
「いひゃい!?」
「頑張れ!」
「いひゃいってー!!!」
美奈は腕を振り上げ、俺の手を払った。
「痛いって言ってるでしょ!なんなのよ!!」
「お前、俺のこと好きか?」
「なに言ってるのよ!?そんなわけないじゃない!」
「よし、戻ったな。時間がないからよく聞くんだ。まず、その指輪を壊すことはできないのか?縁結びの御利益を増幅させているのは指輪だ。だから指輪を壊してしまえばいい」
「無理よ。できればやってるわ。この指輪は絶対に壊せない」
「だったら指輪じゃなくて、指輪が増幅している縁結びの方を壊すしかない」
「御利益を壊す?」
「ああ、縁結びの御利益を無にしてしまえば、指輪も増幅しようがないだろ」
「本気で言ってるの?御利益なんてどうやって壊すのよ?」
「御利益には必ず由来がある。起源があるんだ。この縁結びの御利益の起源は、裾踏姫の伝説だ」
「なに?すそふみひめって?」
「地元のくせに知らないのか?手短に話すからよく聞んだ。昔、この地方を治めていた豪族の姫と、都からやって来た行商人が恋に落ちた。だが、身分の違いから周囲の猛反対にあい、やむなく二人は山に逃げ込み、洞窟に身を隠したんだ。二人はそこを住処とし、一緒に暮らし始めた。しかし、時が経つにつれ、男は湿った洞窟での生活に嫌気がさし、都が恋しくなってきた。そしてある夜、男は姫が寝ている間に洞窟から逃げだそうとした。男は忍び足で洞窟の出口へ向かったが、数歩もいかないうちに男の足は動かなくなった。男がどんなに必死になっても、足は前へ進まない。まさかと思い、振り返った男が見たものは、ズルリと伸びた着物の裾と、その上に立つ姫だった。姫は悲しげに男を見つめてこう言った『私が貴方の裾を踏んでいる限り、貴方はそこから動けません。貴方はもう私から逃れられない。未来永劫、貴方と私は離れる事はないでしょう』ってな。それから二人はその場に立ち続け、肉体が朽ち、亡霊となった今でも、そこに居続けているんだそうだ。……とまあ、これが裾踏姫の伝説だ。この伝説から、裾を踏めば縁結びの御利益があると言われるようになったんだな。つまり『踏んだ女と踏まれた男は永遠に離れる事ができない』ってところから『踏んだ女と踏まれた男は必ず結ばれる』って事になったんだ。だから、御利益を無にするには、伝説の二人を別れさせてしまえばいい。亡霊と成り果てた二人に会って、姫を裾の上から引きずり降ろすんだ。そうすれば伝説の結末は別れになり、縁結びは成り立たなくなる。御利益が無くなれば、美奈も俺も普通に戻るってわけだ。どうだ、いい考えだろ!」
俺は自分の案に満足し、フフンと胸を張った。その胸に美奈の拳がめり込んだのは、まさに一瞬の出来事であった。
「げふぅうう!?な、何しやがるんだ!」
「ひどい!そんなことしたら裾踏姫がかわいそうじゃない!男なんていつも自分勝手で、女の事なんて何も考えてないんだわ!アンタも、私をいつか捨てるつもりなの!?」
「み、美奈?お前……おい、ちょっと頬を出せ」
「チューね?」
「そうだ」
美奈は嬉しそうに頬を差し出し、俺はその頬を思いっきり掴んだ。
「いふ!?」
「正気に戻れ」
「いふぁい!」
「まだか?もっとか?」
「痛いわね!戻ったわよ!あんたの話が長過ぎたからいけないのよ!黙って聞いてたら、ぽーとして意識なくなったわ!」
「まさか、俺の話、全然覚えてないのか?」
「それは大丈夫。今回はおぼろげだけど覚えているわ。いいアイデアだけど、裾踏姫がいる洞窟の場所なんて知ってるの?そもそも、本当に亡霊なんているの?」
「洞窟なら神社の裏山にあったはずだ。亡霊がいるかどうかは行けば分かるさ」
「じゃあ、さっそく行きましょ」
「ちょっと待ってくれ。準備をしたいから少し時間をくれ」
相手は亡霊、一筋縄ではいかないだろう。やはりそれなりの準備をしなければならない。俺は美奈をその場に残し、必要なものを手に入れるために奔走した。
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