第2話 神隠し

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京子から渡された合鍵を使い、俺が家の中へ入ると、すぐさま二階から夏奈子が駆け下りてきた。 夏奈子は俺の姿を認めると明らかに落胆し、次いで俺を睨み付けた。 「俺で残念だったな。もう、京子も章介も帰って来ない。お前、自分のした事を分かっているのか?京子を監禁?常軌を逸している」 夏奈子は何も答えず、クルリと俺に背を向け、階段を上り始めた。 「おい、ちょっと待て。まだ話は終わってない」 俺は彼女を追い、階段の途中でその手首を掴んだ。 「離してください!」 「いや、下へ来い。話がある」 「離してください!!」 彼女は叫び、掴まれていない方の手で俺の胸を強く叩いた。 俺は不覚にもバランスを崩し、それに引っ張られて彼女も大きくよろめく。 俺はとっさの判断で彼女の手首を離し、彼女をその場に残して一人階段下へ転げ落ちた。 「……ぐぅ」 背中を打って動けない俺に、夏奈子は一瞬だけ階段を下りる素振りを見せたものの、俺と目が合うと、そのまま二階へ上がって行ってしまった。 「くそ……」 俺は彼女の態度と、そして、背中の激痛に毒づいた。 翌朝、俺は布団の中で動けずにいた。背中の痛みが取れず、起き上がれなかったのだ。 俺が鬱々としていると、玄関のドアが開く音がした。 どうやら、出掛けていた夏奈子が帰って来た様だ。 そのまま聞き耳を立てていると、彼女の足音は二階へ向かわず、俺の部屋の前で止まった。 そして、ドアがコンコンとノックされた。 「……何の用だ」 俺が返事をすると、ドアが静かに開き、夏奈子が部屋に入ってきた。 夏奈子は薬局の紙袋を持っており、それを枕元へ置いた。 「これ、湿布薬です。ごめんなさい」 夏奈子は頭を下げると、俺が言葉を発する前に部屋を出ていった。 その湿布薬の効果なのか、夕方になると背中の痛みが無くなり、俺は動けるようになった。 空腹だった俺はまず台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。中には野菜や肉などが入っており、俺はそのうちのいくつかを取り出し、調理を始めた。 そして、俺は料理が盛られた皿を持ち、階段を上った。 布団の中で様子をうかがっていた限り、夏奈子はこの日一度も台所へ行っていない。部屋で菓子でも食べていない限り、きっと空腹であるはずだ。 俺が料理を持って行くのは湿布薬の礼などではなく、階下でこっそり自分だけ食べるような男だと思われるのが嫌だったからである。 俺はドアをノックし、夏奈子の応答を待つが、中からは何の物音もしなかった。 俺がドアをわずかに開けてみると、落陽の光の中に彼女は座り、窓の外を眺めていた。俺の存在に気付かないはずはないのだが、彼女は横顔を向けたままであった。 俺はそれを良いことに、彼女の美しい顔に見入った。 薄暗い部屋の中、彼女の肌の白さは際立っており、その蒼白い頬にかかる黒髪が彼女を儚げにみせていた。もし、ここに彼女を初めて見る者がいたとしたら、恋人に逢うためなら他人をも犠牲にする、そんな激情の持ち主だと説明しても信じなかっただろう。 俺が飽くことなく彼女を見つめていると、不意に彼女がこちらへ顔を向けた。 俺は慌てて彼女から目を逸らし、手にした皿を差し出した。 「これ、作ったんだ。食えよ」 彼女は皿をチラリとだけ見て、視線を俺の顔に戻した。 「章介さんは、この家から引っ越すのでしょうか?」 「ん?ああ、そうなるだろうな。章介にとって、これ以上危険な家はないからな」 「でしたら、望月さんにお願いがあります」 彼女はそう言うと、顔だけでなく、体ごと俺に向き直った。 「望月さんに、この家を借りてもらいたいのです」 「俺が?でも、俺には京子という名の妹はいないし、車も持ってない。総一郎と何一つ重ならないから、俺に神隠しは起こらないと思う。俺がここにいても、君にとっては意味がないんじゃないか?」 「もう、神隠しはいいのです。ここまで京子さんに警戒されてしまっては、章介さんをこの部屋へ連れ込むのは無理です。総一郎の所へ行くのは諦めました。だったら、せめて、この部屋に居たい。ここが、総一郎に一番近い場所だから。望月さんに家を借りてもらえれば、私はここに居続けることができます」 「もし、俺がこの家を借りなかったら、どうするんだ?」 「次に入居する方に頼みます」 「おい、それはやめておけ。章介はお人好しだったから良かったが、もし、次の入居者がろくでもない男だったらどうする?酷い目にあわされるぞ」 「ですから、あなたに頼んでいるのです」 俺は頭を抱えたくなった。俺には借家を維持するだけの金がない。かと言って、彼女がみすみす他の男の毒牙にかかるのを見過ごす事もできない。 「なあ、この部屋にこだわるのはやめないか。そもそも、本当に神隠しがここで起こったのか?もしかしたら、単なる家出かもしれないだろ?」 「いいえ!」 彼女は激しく首を横に振った。 「総一郎は、自分が神隠しに遭うことを予感していました」 「ちょっと待て。予感していただと?どういう事だ?」 「神隠しに遭う一週間前、私はこの部屋に遊びに来ました。その時、総一郎は私に言ったのです。僕はエリツカミに狙われている。エリツカミが僕の襟を掴もうとしていると」 「えりつかみ?なんだそれ?」 「古来より襟を掴んで人間をさらうことを生業とする神……総一郎はそう言っていました。そして、この家の中、この部屋の周囲に気配を感じると」 「総一郎は狙われていると知っていたのに、この部屋に居続けたのか?」 「はい。私は心配して、私の家に来るように言いました。でも、総一郎は、この家から出ませんでした。これからもずっと住む家だから、今のうちに解決すると言って。そして、満月の晩に、この部屋からいなくなってしまったのです」 夏奈子はそう言うと、悲しげに面を伏せた。 「いったい、この部屋で何があったんだ?」 「知りません……それを知る手段は章介さんだけでした」 「なるほどな。章介になら同じことが起きる。それを観察すれば、総一郎に何が起こったのか知ることができる。そして、あわよくば、その章介についていき、総一郎とご対面ってわけか」 俺が皮肉を込めて言うと、彼女はさらに顔をうつむかせた。 「……私、総一郎に会いたい。間違った事をしているのは分かっています。でも、会いたいのです」 うつむいているため、彼女の表情は見えない。だが、床に落ちた滴によって、彼女が泣いている事が分かった。 彼女が一途なのは確かである。だが、その一途さが間違った方向へ向いているのだ。 その方向を直してやるのが、今一番近くにいる大人、つまり、俺の役目なのかもしれない。 だが、俺が何かを忠告したところで、彼女は俺の言葉に従いはしないだろう。 なぜなら、俺は彼女のために何もしていないからだ。言葉の重みとは、その人のためにどれだけの事をなしたかにより、重くもなれば、軽くもなる。今の俺の言葉に彼女を動かす力は無い。 しかし、彼女のために行動しようにも、神隠しなどという怪異に対して、何をどうしたら良いのか皆目見当もつかない。 (怪異か……) 必然的に、俺は人生で唯一体験した怪異、祭の夜の強烈な出来事を思い出した。 (御利益か……) だが、神隠しに効く御利益など聞いたことがない。よって、あの変な指輪でも増幅しようがない。 (だったら……) 裾踏姫はどうだろうか。 裾を踏む事によって、人間をその場に呪縛する裾踏姫。 まさに、人間をその場から連れ去る神隠しとは対極の存在だ。 そこから俺はある案を思い付き、夢中になって可能性を探った。 「あの……」 俺はその声で我に返った。 見ると、夏奈子が不安そうな表情で俺を覗き込んでいた。 「何が……おかしいのですか?」 夏奈子に言われ、俺は初めて自分が笑っている事に気付いた。 「いや、ちょっとグッドアイデアを思い付いてな。なあ、俺と一緒に総一郎を取り戻さないか?」 「取り戻す?」 「そうだ。総一郎を奪った奴から、総一郎を取り戻すんだ」 「どうやってですか?」 「それは、総一郎をさらった相手をよく知る事から始める。襟掴神と安全に接触する方法がある。俺と一緒にやろう。この部屋で昔の思い出に浸っているよりマシだろ?」 「それは……出来るなら総一郎を取り戻したいです。でも、どのようにして……?」 「やはり、章介を囮にするのが一番だ。だが、章介の安全は確保する。確保したうえで、神を誘きだし、接触する」 「無理です。総一郎は家のわずかな異変に気付くほど勘が鋭く、頭が良かった。その総一郎が何の対策もしていなかったはずがありません。でも、総一郎はさらわれてしまった。総一郎が出来なかった事を……」 「俺に出来るはずがないか?」 夏奈子は気まずそうに目を逸らした。 「いえ……すみません」 「総一郎は知らなかった。だが、俺は知っている。だから、出来る」 「何を知っているというのです?」 その問いに、俺の頬が自然と弛んだ。 「ちょっと騒がしいが、最強の重石だ」 「おもし?」 「ああ。裾を踏み、人間をその場に呪縛する者。裾の上に巨岩が乗っているも同然、誰もその場から動かせない。そういった姫だ」 「まさか、裾踏姫!?」 夏奈子が驚いた様に叫んだ。 「知っていたのか?」 「総一郎が言っていました!裾踏姫を見つけ出せれば僕は助かると!神も僕をさらえないだろうと!」 「総一郎もなかなかだな。だが、さらわれたって事は総一郎は裾踏姫を見つけ出せなかったんだ。だが、俺は裾踏姫を知っている。よし、章介を囮にして、襟掴神を誘き出そう」 「ああ……もっと早く裾踏姫が見つかっていれば、総一郎は……」 夏奈子はそう言うと、悔しげに下唇を噛んだ。
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