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そのとき芽生えた恋心は、奈々子の中で少しずつ育っていく。原田が大きな契約をとったと聞けば、自分のことのように嬉しかった。学生時代はバスケ部だったという彼は、180センチ以上ある身長とその精悍な顔立ちという外見だけでなく、若手の中では営業の実績ナンバー1という実力もあって、多くの女子社員が彼の気を惹こうと躍起になる。その中にあって、奈々子は仕事の上で彼の役に立てればと思う。そしていつか彼が自分のことを少しでも気にかけてくれないかと思っていた。
しかし現実は甘くない。そんなささやかな思いが通じることはなく、今日はじめて原田の婚約を知った奈々子は、これ以上彼の噂話を聞くに堪えず、逃げるように雨の中を歩き出す。一人になると気持ちの抑えもきかなくて、思わず涙があふれてくる。
「佐倉さん、待って」
振り返ると、同じ課の倉科一輝が小走りで駆け寄ってきた。
「傘も差さずに歩くと風邪をひくよ。これをーー」
そう言って、青い傘を奈々子にさしかける。普段なら、そうした人の好意を素直に受けるのだが、このときばかりはそんな気持ちのゆとりもなく、彼女らしくなくきつい言葉を返してしまう。
「私のことは構わないでください!」
そう言う側から涙があふれてくる。そんな姿を見られたくなくて、
「私のこと見ないで……」
そう言ってしゃがみ込んだ奈々子の側に近づいた倉科はハンカチを差し出しながら言う。
「泣かないで……家まで一人で帰れる?」
泣き止まない佐倉に戸惑いながら、
「いや、一人で帰すのは僕が心配だな」
そう言って、流しのタクシーを停めると、奈々子を乗せてから自分も乗り込む。彼女の住所を聞き出し、彼女の住むアパートへ向かう。目的地までは車で約三十分。彼女は少しずつ落ち着きを取り戻しはじめたものの車内は気まずい沈黙が流れる。
「原田のこと、そんなにショックだった?」
その問いにどう答えようかと戸惑いながらもこくりとうなずく。
「そう……」
それ以上の言葉を交わす事もなく、タクシーは目的地に到着する。
「今日はゆっくり休んで」
「いろいろすみませんでした。おやすみなさい」
彼女がアパートの扉を開けるのを確認して、倉科は帰路についた。
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