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私も猫――「チャコちゃん」をあわあわと渡して、お互いに一歩ずつ離れる。なんて大失態。
いい大人が呼ばれたと勘違いして、なんの疑問もなく自分から腕の中に収まりに行くなんて。
自分はどちらかというとパーソナルスペースが広めのタイプで、こんなこと今まで一度だってなかったのに。
私、疲れてんのかな、うん、きっとそうに違いない。
「……ちやこ、さん」
「はい、そうです。あの、すみ、すみませんっ、勝手なお願いですが今のは忘れていただけると! でないと恥ずかしすぎて、もうお店に来られなくなってしまいます……」
最後の方は泣きが入っていたと思う。せっかく見つけた「猫付きの美味しいお店」を、こんな事で失うなんて耐えられない。
筋金入りの自宅娘の私は、自慢じゃないが毎日の自炊なんて全く自信ない。外食・中食は生命線だ。
もう一度下げていた頭をなんとか上げると、ちんまりと猫を抱いて眉を下げ、まさに打ちひしがれる姿がそこにあった。
「いえ、こちらこそすぐに動けず本当に申し訳ありません。この図体ですから女性には怖かったでしょうに、自分でもなにがどうなったのか……」
「こ、怖くなんてなかったですし、悪いのは私ですので、気にしないでいただければっ」
本当に申し訳なさそうに肩をすくめて小さくなってしまわれた。
あああ、罪悪感が半端無い。外見はともかく、少し話しただけで誠実な人だってすぐ分かったのに。
何度も言って、ようやく顔を上げてもらえた。
頑丈そうな腕の中で窮屈気味に、でも大人しく収まっている飼い猫を見ながら、コックさんは私に許可を求める。
「紛らわしい名前の猫ですみません。ですが、この子もずっとこの名前なので、このままチャコと呼んでも構いませんか?」
「そ、それはもう! 当然です!」
「ありがとうございます……香取正人です。これからも、お越しいただけると」
ふわりとなにか雰囲気の変わったことに戸惑いつつも、フルネームで名乗られてまだ名字を告げていなかったことを思い出す。
「はい、もちろん! あの、重岡千耶子といいます」
「覚えました。千耶子さん」
満面の笑顔で名前を呼ばれて、彼の周りがポッと光って見えたのは多分、サンルームに注ぐ陽のせい、だと……。
「う、あ、あの、もう本当に……すみません」
謝らないでくださいと今度は私が慰められて、居た堪れなくなりながらワタワタと帰り仕度を始めた。
置き忘れたスマホを手渡された時に指先が触れて、なぜかまた動揺して勝手に赤面する。
私の挙動不審さを不安に思ったのだろうか、コックさんの彼は私と一緒に店の外まで出て、不動産屋の方向を教えてくれた。
店から不動産事務所に着くまでに、何度躓きそうになったか正直覚えていない。
契約書に記入する段になって、ようやく気持ちは落ち着いたけれど――最後に見た彼の笑顔と、それを思い出した時に高まる動悸はいつまでも残ったままだった。
そして。
無事に引っ越しを終えた私は多少気恥ずかしさを感じながらも、つつがなくこの店の常連となり。
頻繁に通ううちにチャコちゃんだけでなく店主一家(ついでに私の借りたアパートの大家でもあったよ! びっくりだね!)とも交流を深め。
かりそめと思っていたこの地に長く長ーく住むことになることを、この時の私はまだ知らないのだった。
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