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その晩。一段落した厨房をスタッフに任せると、賑やかな店内を縫って、いつもの席に座る悪友の元へ行く。
「ああ、正人。この前言ってたアパートの内覧のお客さんが今日来てね、二丁目のとこのに決まったよ。法人契約で二年更新。いつも通りこっちで管理するから」
「……あの部屋、前に入居していたのって男だったよな」
「銀行員だったな。短期間だったし綺麗に住んでたからクリーニングで済んだけど」
「壁紙張り替えてくれ、全部。フローリングも。あと、前に言ってた玄関のシューズクローゼット、あれも大きいのに変えていい」
悪友は持っていた箸を落としそうになりながら、ぽかんとこちらを見上げる。
「え、マジ? 壁も床も綺麗だよ。ちょこっと日焼けしてるくらいで、目立つ傷もないし」
「いいから。費用は俺が持つ」
「……へえ。いいよ、分かった。入居まで日がないし優先でやらせるから割増料金になるけど?」
構わないと頷くと、面白いものを見るような眼でしげしげと眺められる。
幼馴染でもあるこいつとは、家族ぐるみの付き合いだ。そうはいっても不動産の管理を任せているのはそれが理由ではなく、実績と実力を認めてのこと。
「なんだよ、ユニットバスも交換とか言い出しそうな勢いだな」
「それもあったか」
「いやいやいや、まだ全っ然、新しいからねっ。さすがにそこは管理者として止めるよ! クリーニング念入りにするから!」
勘のいいこいつのことだ。俺がいつもと違うことなんてお見通しだろう。そしてその原因も。
しばらくニヤニヤしながら箸を進めていたが、やがてなにも言わない俺にしびれを切らして自分から話し出した。
「午後に事務所で契約の説明したんだけどさ、雑談で昼飯の話になって。ここで食べたって聞いたよ。地元の情報教えてもらったって言ってた」
「……」
「正人、お前ってさあ」
何だ、と問えば真面目くさった顔で楽しそうな声を出す。
「親のことがあって、女の子とか結婚とかを避けてるのかと思ってたけれど……出会ってなかっただけなんだな」
結局、そういうことなんだろう。
両親の残したトラウマなんて思い出している暇がなかった。
「で、どうするの? 悪いけど個人情報は渡せないよ」
「必要ない。とりあえずは胃袋を掴む」
「おお、全力で取りに行け。そうだな、一個だけアドバイス。好き嫌いは特別ないけど魚が好きだって。『海が近いから美味しいでしょうねー』って、楽しそうにしていたよ」
頑張れよ、と高く上げられたビールジョッキに握りこぶしを合わせると、厨房に戻った。
また来るだろうか、この店に。来てくれるだろうか、夜に。
最高に美味いアクアパッツアを食べさせたらどんな表情をするだろう。
ふと顔を上げたガラスの向こう、サンルームの上空には朧に霞む月がかかっていた。
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