平穏

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平穏

 ご子息が帰ってきたことを旦那様は知らずにいた。  そろそろであるのは間違いないと思っていたが、正確な日にちまでは把握できていなかったのだ。  信枚様はご帰宅後、あちらでの慌ただしい日常を忘れ去ろとしているのか、常に安らぎを求めていた。  海がお好きなようで、暇を見つけては水筒と私が握った御握りを二つ持って漁港へ出かけていっている。  あの再会以来、私たちは屋敷の中で会うたびに少しではあるが、会話をするようになっている。  最初に話しかけてきてくれたのは、信枚様からで御握りを頼まれたのがきっかけだった。    元々、私が幼い頃はよく遊んでいただき、本当の兄のような存在だと私は思っていた。  そして、今日も彼は肌寒い風を浴びながら海の見える波止場で半日を過ごしに行こうとしている。  「信枚様、どうぞ」  いつものように朝一番に用意した御握りを手渡そうとしると、なぜか彼は照れながら私に言ってきた。  「あの…。 もし、よかったらもう一人前作ってもらってもいいかな?」  誰かと会うのだろうか? それなら御握りでなく、もっと良いものを用意したほうが良いのではないだろうか?  「かまいませんが、どちら様とご一緒で?」  少し顔を赤く染めながら左手の人差し指で、軽く頬をいじっている。  「どちら様って言われると困るけど、あれだ…。 その、もしよかったら僕と一緒に波止場へ来てくれないか?」  一瞬心臓が飛びはねたような感覚を受けたが、よくよく考えてみると私はこれからもお屋敷でお仕事が残っていた。  「大変申し訳ご…」  「行きなさい」  お断りしようとすると、背後から執事の森岡さんが声をかけてくれた。  「あなたはいつも休まず頑張っている。 幸い、今日は予定も入っていないから、信枚様と出かけてきなさい。 大丈夫こちらは心配ない」  優しく微笑む森岡さんが、私の背中を少しだけ押してくれた。  「それでは、お言葉に甘えさせていただきますが、ご迷惑でなければ…」  「迷惑だなんて、僕が誘ったのに迷惑なわけがないだろ」  少し複雑な面持ちになられた信枚様になぜか森岡さんは、肩をポンポンと叩いている。  何か男性にしかわからない合図なのだろうか?  
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