5月

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「ふう……」  途中で猫に売上を持って行かれるなんてトラブルもあったものの、どうにか赴任一日目を無事に終える事ができた。  私はペットボトルのお茶で喉を潤わせながら、明日注文する予定の品切れ間近の商品チェックをしていた。うちの会社の購買部は最終下校時刻、つまり部活の下校時刻までいる事が義務づけられている。春・夏は六時で、秋は七時。これは文化祭が近い影響らしい。冬は暗くなるせいか、受験シーズンに入るからか、五時半までとなっている。  そしてあと五分で六時で、そろそろ購買部を閉めてもいい時間帯だ。まだ開けてた方がいいかしら、それとももうそろそろ閉めちゃっても……。そう思っていたときだった。 「すみません」 「はい?」  珍しいなと思って私は在庫チェックのシートファイルにボールペンを引っかけた。今日一日、散々「おば……お姉さん」と言い直され続けたと言うのに、わざわざ名前を直されなかったということに。  顔を上げて声の主を見て、私は思わず遠い目をしそうになったのをこらえた。  シルバーフレームのメガネにきっちりと着こなした制服。そして髪も真っ直ぐな真っ黒であった。ちらりと制服のジャケットを見てみれば、そこには「幸塚高校」と記念ボールペンが差されている。  もしかしなくっても……もしかするわよね。ここまでベタだと。半笑いにならないよう私は頭の中で「通常運転通常運転」と唱えてから今日最後の客に向かい合った。 「すみません、こんな遅い時間に」 「ううん、大丈夫。まだ営業時間だし」 「そうですか……すみません、普段だったら待ってもらっていたので」  おい、前任……。  私は少しだけ見たこともない前任者に文句を言いたくて仕方がなくなった。サボリの常習犯だったら、「営業時間はあくまで最終下校時刻だから」と学校を最終下校時刻と同時に帰宅してしまう人がいる。普通だったら最終下校時刻になったと同時に精算して帰路に着くわけだから、下校時刻と同時に帰宅なんてのはありえない。そりゃ暇だったら前もって帰る準備してるけど、毎度毎度じゃないわよそんなの。 「あはは……それは急いでたのかもしれないわね、で、何を買うのかな?」 「すみません、マジックペン三本とシャーペンの替え芯ひとつお願いします」 「はい、少々お待ちください」  私はテンポよく奥の在庫ダンボールからマジックペンとシャーペンの替え芯を持ってくる。 「はい、合計で500円です」 「ありがとうございます。それと、領収書発行してもらっても構いませんか?」 「はい、名前は?」 「はい……幸塚高校生徒会で」  ……決まり、だな。  私は必死で遠い目になってしまいそうなのをこらえながら、領収書を書きはじめた。 ****  明日用の注文も済ませ、精算も完了してから、売上を会社に届けてから帰路に立つ。 「ほんっと、どうなってるの。これは……」  ひとりふたり、そっくりな人がいるのならまだいい。  でも、攻略対象五人中、四人までもいるなんて言うのはありえない。そりゃ「えこうろ」は商業ベースの乙女ゲームじゃなくって、あくまでアマチュアサークルの作ったゲームだけど。どうしてゲームそっくりな子たちが普通に学園生活してて誰もツッコミを入れないのか。  最後に生徒会宛に領収書を切った子は、不破衛弥(ふわえみや)君。「えこうろ」に出てくる堅物メガネな副生徒会長そっくりなのだ。失恋したばかりの主人公を心配する幼なじみポジションで、厳しいことばかり言うのも本当に大事だからって気持ちからだという不器用ってものをこれでもかと詰め込んだような子。 「えこうろ」をダウンロードして、それをやって。次の日からの職場はそのゲームの攻略対象の男の子(と、男の人)だらけっていうのは、一体どういう事なの。  あまりにもマンガやゲームに出てきそうな話に、私は思わず頭を痛くする。こんな馬鹿みたいな話、誰にもできる訳もないし。  でもここまで被ってきていると同時に「あれ」とも思ってくる。  攻略対象である男の子がまだひとり足りないのだ。確か、あの子は……。それともうひとつ。主人公ポジションの女の子はどこに行ったんだろうということ。  私? それはないない。  恋愛偏差値の底辺っぷりは、中学生以来恋らしい恋なんてしていない上に、アラサーも合わさって他の追従を許さないんだから、失恋から始まる恋がコンセプトの「えこうろ」のヒロインになれる訳がない。……自分で並べてみて何だか悲しくなってきたけど、本当なんだから仕方がない。  これだけ状況が状況なんだから、このふたりが出てきてもおかしくはないはず。 「……何だか、楽しみになってきたな」  いらん世話な気はしないでもないけれど、仕事の合間に乙女ゲームのような世界を観察できるって言うのは、少し楽しいかもしれない。元々幸塚高校は私の前いた女子校よりもよっぽど仕事がしやすい上に、販売対象の生徒も先生も皆性格がいいのだ。自分が乙女ゲームみたいな体験をしたいなんて言うのは、いくら何でもおこがまし過ぎるけど、観察程度だったら楽しめそうだ。  よし、明日も頑張ろう。  そう思いながら、ペダルを踏む足の力を強めた。  五月の吹き抜ける風は緑の匂いをはらんで、とても心地がよかった。
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