せんせい。

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せんせい。

・ せんせい、あのね。 卒業する前にひとつ、伝えたいことがあるんです。 ・ 桜の花も開きはじめた春の訪れを感じるこの頃。 3年間通り続けた通学路を1歩1歩踏みしめながらあるいていく。 いつもどおり正門を潜って、いつもどおり上履きに履き替えて。 いつもどおりクラスに向かって、いつもどおり他愛もない挨拶を交わす。 いつもと違うのは、黒板が色鮮やかに飾られていること。 鞄がすっからかんなこと。 朝のSHRはなく、体育館へ移動したこと。 体育館の扉が開く。 あたたかい空気に包み込まれながら、1歩踏み出した。 「卒業生、入場。」 わたしは今日、卒業する。 ・ 卒業式を終え、わたしは足早に国語研究室に向かった。 コンコン、とノックを2回。 「はい、」という返事に、胸が高鳴るのがわかった。 「失礼します」という堅苦しい挨拶をしつつ、扉を閉める。 「今日のようなめでたい日にも、国語研究室になにか用事が?」 クラスのみんなと過ごさなくていいんですか。 掛けていた眼鏡をはずしながら、先生はそう聞いてくる。 「わたしが、無理言って抜けてきたんです。 先生に、どうしても伝えておかなきゃいけないことがあったので。」 そういうと、いつも眠そうな先生の目が微かに見開かれたのがわかった。 ・ 「先生、あのね。」 すきでした、ずっと前から。 ・ 授業以外は眼鏡を外すのも。 その少し低めの声も。 綺麗に並んだ黒板の字も。 いつも眠そうなところも。 ぜんぶ、ぜんぶだいすきでした。 ・ 「先生、おーはし先生。」 返事はいらないんです。自己満でごめんなさい。 「でも、どうしても伝えておかなくちゃいけないような気がして。」 今を逃したら、一生言えない気がしたから。 先生は、最後までじっと私の話を聞いてくれた。 「先生あのね、わたし大学合格したんです。春から女子大生です。」 先生が教えてくれた古典のお陰です。 苦手だった古典を克服できたのは、先生がいたから。 先生が、いつも優しく教えてくれたから。 「3年間、ありがとう、ございました…!」 そう言って、深く、深く頭を下げた。 ・ 「顔を上げてください、井上さん。」 大橋先生のその言葉で、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。 そんなわたしに微笑みながら、大橋先生は続けた。 「百人一首は覚えていますか、中学の頃にやったでしょう。」 私は頷く。すると、先生はよろしいとばかりに頷いて。 「では一首、よみましょう。 これが、私からあなたへの返事だと思ってください。」 そう言うと先生は、私の大好きな落ち着いた声で、一首よみあげた。 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ ・ 「意味は、次会うときまでに調べておいてください。 卒業おめでとう、井上さん。」 もう触れても構いませんね、卒業ですから。 そう言って涙を拭ってくれた先生の手はひんやり冷たかった。 「先生って、手冷たいんですね、」 「ええ、そうですよ、末端冷え性なので。」 そう言ってくすり、笑った先生を見て、また好きが増えた。 ・ 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あわむとぞ思ふ 川の瀬の流れが早いので、岩にせき止められた急流が一度は別れても後にまた1つになる滝川。 それと同じように、たとえ今は恋しい人と別れても、将来は必ず結ばれると信じています。 この返事の句にそんな意味が込められていることに気づくのは、もう少し先のおはなし。 Fin.
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