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魚の青白い唇がエスタの手の甲に口付けた。敬愛現れだ。
だがひんやりとしたその感触にエスタの肌が粟立つ。そんなはずはない。解放された手の甲をそっと背中で拭い、ふと過ぎる嫌悪感をなかったことにした。
「エスタ、いずれ貴方にお別れに行きます。その時に、お借りしたものきちんとお返しします」
(――その話をしようとしていつも忘れてしまうんだ)
そうだ。魚はそう言いうが、エスタはどう記憶を遡っても、銀の粒と他言しない事のほか、なにか叶えたり貸したりした覚えがない。
例えば、貸していたとしても今までなにも不便はない上、言われてもそれが何だか気が付かないくらいだ。それならば、そのまま魚に譲ってもいいと思った。
「いいよ。そのままアピアが持っているといい」
すると魚は驚き、震える声を出した。
「……いけません! 最初に断りもなく借りただけでも申し訳ないのに。なぜ何も言わずに借りたか今、ここで白状いたします。それはいくら親切な貴方でもこのお願いは聞いてくれないと分かっていたからです。でも私には必要だった」
「アピアにとって、それはもう必要ないものなの?」
「いいえ! とんでもない! ……喉から手が出るほど……欲しいぃ……!」
唸るように言う魚の声に、エスタは初めてはっきりとした恐怖を感じた。いままで何度も話したが、聞いたことのないような感情のこもった声だ。
あの鈴のような清んだ美しさの片鱗もない。まるで喉を潰された海鳥の鳴き声のように耳を貫く。
一刻も早く、ここから離れなければと直感が走った。
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