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ある夏のこと――。
時折、エスタとエストは師匠と共にキヤナル郷を下り、麓の野山で修行することがある。
草を取り除きただ地面を踏み固めただけ、師の手製の修練場は藪に囲まれていて狭い。寺院の中の立派な修練場とは大違いだ。
それでもここは、最高師範という立場でありながらラゾナの厳しい戒律を窮屈に感じている、少しばかり破天荒な師の安息の地だ。
そこでの修行中、兄エスタは師に派手に投げられた。受け身を取り損ねたエスタは不格好に転げて、土埃にまみれ痛みに呻く。
弟のエストはすぐさま駆け寄り手を差し出した。
「うう……ありがとう……」
弟エストは笑顔で兄の手を取り、力強く引き寄せた。
「兄さん、血がでているよ」
「う……うん。血の味がする」
口の中が切れてしまったのだろう、舌に鉄の味が纏わりつく。口元の血を手の甲で拭い、エスタはバツわるく苦笑いを浮かべた。
弟エストは無言でその肩をポンと叩く。言葉がなくても分かる。弟は元気づけてくれたのだ。こうしていつも互いを励まし支え合い、厳しい修行も耐え抜いている。二人はとても仲睦まじい兄弟だった。
「エスタ。顔を洗ってこい」
師が言いつけると、弟エストが当然のことのように兄に付き添ってついていこうとする。師はそれを制した。
「エスト。休憩はまだだ。お前も血が出てから泉へ行け」
「……はい」
それでも後ろ髪をひかれているような返事に、「不満そうだな。ようし、投げ飛ばしてやるから来い!」と、弟エストにじゃれてかかった。
師と弟の声に顔を綻ばせながらも、エスタは先ほど受け身を取れなかったことを反省し、どこが悪かったのかを考えながら泉を目指し茂みに分け入る。
泉は修行場所からそれほど離れてはいない。小さいながらも常に清らな水が満ちていて、この場所で修行をするときにはここで顔を洗い、喉を潤す。
とうとうと良く水が湧くこの泉は、動物たちの水場でもある。泉の周りの茂みには幾筋もの獣道が引かれている。それ辿るとすぐに開け、底まで陽の光を透す美しい泉がいつもと変わりなく煌いていた。
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