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エスタは気味が悪くなった。
早々に立ち去ろうとしたが、どういうわけか魚から目が離せない。鱗の無い黒い体は傷だらけだった。見るほどに魚の体は痛ましく、赤黒い筋がいくつもある。それは刃物で切り裂いたような傷跡だった。
動いているのが不思議なくらいのその姿に不吉なものを感じる。こうしているだけでただならぬ焦りを覚える。それなのに、エスタは魚に釘付けになっていた。
(師匠が……エストが待ってる……早く、戻らなきゃ)
どうにか目をぎゅっとつむると息苦しい。無意識に息を詰めていたようだ。深く息をしてエスタはやっとのことで立ち上がる。何故こんなに体が重たいのだろう。よろよろと一歩後ずさったところで、また魚が話かけてきた。
「ねえ、貴方。ここは良い泉ですね」
気さくに声をかけてくるものを無下にするのは気が引ける。相手は不気味な魚とはいえ、最初の挨拶すら返していない。
エスタはこのまま黙って立ち去ることが急に後ろめたくなった。
「……そう、気に入って良かった。お邪魔したね。ゆっくり休んで」
どうということもない返事だというのになかなか言葉が出ず、絞り出すようにしてやっと声を出した。喉がかすれ、音が出ていたかどうかも分からないくらいだが、義理は果たした。そう自分で決まりをつけてエスタが振り向き、帰り道を真っ直ぐに見つめたその時。
魚がピシャっと跳ねた。
「待ってください。私は貴方に三つのお願いがあるのです。私の身の上話を聞いてくれますか」
不思議と、先ほどまでは何も感じなかったが、聞けば魚は鈴のなるような美しい声をしていた。
よくとおり、まるで波紋のようにあたりに広がっていく――。
もう一度聞きたい。そんなエスタの心を察したかのように魚は話しを続けた。
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