十二 —終幕—

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快晴の澄んだ空気の中、彼女は翼を広げ悠々と飛んでいた。 王都とは反対の方角、かつて群れの大移動ではぐれた南へと進んでいく。 下着のような黒を基調とした衣服は、最初にタカトと会ったときの恰好であり、やはり胸元にはハートの形の穴が開いている。 二本の短角は日の光を反射し、てかてかと光っていた。 彼女は戦闘の疲労が抜けていない上、碌な飯を食べられなかった故に空腹で、おまけに瞼はひどく重かった。ただ一刻も早く立ち去りたいために、飛んでいるのである。 「言ってしまえば、これはただの見栄なのかもしれません」飛んだまま、彼女が呟く。 「——人間がよく使う言葉でいうなら、偽善とか、虚栄とか、そういう類なのかも。でもわたしは、そうじゃないと思うんです。あの上着……タカトさんの温もりがまだ残っていた上着を返したとき、タカトさんが不思議そうに首を傾げて受け取ったとき、こんな気持ちになったんです。なにか……ちょっとうまくは口に出来ないんですが、とにかく逃げるなら今のうちだと、逃げ出さなければならないと、そう思ったんです」 ぐぐぐ、と唸るような音がした。 風を切る音ではない、それはオディーナの腹の中から聞こえた音であった。 それが意味することは言うまでもない。 ぐっ、と翼に力を込めて、さらに高く飛翔する。 「いや、もっとはっきり言ってしまえば、良心の問題かもしれません」とオディーナは言い、 「——白状すると、わたしは急に恥ずかしいというか、不相応な気持ちになったんです。考えてもみてくださいよ、サキュバスのわたしが人間の真似事で絞りだした作戦が、あれよあれよと上手くいって、成功しちゃったんですよ!そのときは良かったんです、はっきり言って物凄く不安でしたけど、典型的な下半身お猿さんがいたこともあって、魔力が途切れることもなく、全てが完了して……そうだ、わたし何でここにいるんだろうって。だってわたし、完全な部外者じゃないですか何我が物顔で中心にいやがるんですか。あとは、そうです、あのまま残っていたら間違いなくわたしの功績が読み上げられるでしょう、えぇ最初は望んでいましたとも、絶対タカトさんを離さないと躍起になって、最後にはそれが現実的な展望に……そうしたら、わたしの良心的な問題から見て、いられる道理がないんですよ」 既に全身くたくたで、魔力も足りず、睡魔も相当強いというのに、オディーナはどこか高潔な気分に浸っていた。晴れ渡る青空のような清々しさに包まれ、実に爽やかであった。 しかし、身体というのは正直である。 鞭のようにしなり、暴れているのはオディーナの尻尾。 搾精口を高速でパクパク、まるで本体の所業に猛抗議しているかのようであり、もう一人のオディーナともいえるそれは、心の中に向かってこう訴えていた。 「やいやいやい、この見栄っ張りの淫乱女、待ちやがれってんです」とそいつは言い出す。 「一番最初のことを忘れちまいやがったんですか。貴女、空腹のあまり恥も外聞もなく精液をねだっていたではありませんか。なぁにが良心ですか、貴女は一番役に立っていたし、悠々自適のお忍び生活は目の前だったんですよ、ほらほらほら、さっさと戻りやがれってんです、今すぐタカトさんのところに戻るんです、どうしても恥ずかしいならせめて、謝礼のお金だけでもたんまり貰えばいいじゃないですか、きっと誰も文句は言いませんからさっさと戻りましょうよ」 高度が段々と低くなっていく。心なしか、翼の力が落ちてきているような感じだ。 「お願いですから戻って下さいよぉ」と、心の中のオディーナは懇願するのだった。 「また宛もなく彷徨うんですか、頭に石っころ詰まった男に斬られそうになりながら、ひもじいその日暮らしですか。嫌です、絶対に嫌です、こんなに腹ペコなのに高潔がどうのこうの、だいたい貴女サキュバスでしょうが、作戦中だってつまみ食いしてた癖に、いまさら善人気取ってんじゃねぇですよ、戻れ戻れ戻れ、このお馬鹿さっさと戻れぇぇ……」 オディーナは荒れた大地へと降り立った。 尻の割れ目にパンティーが食い込んでいるので、指で位置を直すと、ぽろりと砂が落ちた。 腹の虫は収まるどころか、かえってその勢いを増している。 振り返って、はるか遠くになったタカトの故郷を見た。 からっ風がオディーナの身体へと吹き付ける。徐々にその風が、強さを増していくように感じた。 「風、かぁ」 ——そういえば、彼が颯爽と駈けるときは、いつもこのような風が吹いていましたね。 その時である。 オディーナは、最初見間違いだと思った。 柄にもなく別れるのがちょっぴり惜しいなんて感じたから、錯覚を見ているのだと、そう思っていた。 名前を呼ぶ声が、風に運ばれて来た。 地平線の彼方、小さな黒点が徐々に大きくなっていき、一目散にオディーナへと向かってくる。オディーナはどきりとした。まさか、追い付いてくるとは夢にも思っていなかったからだ。 タカト・グライアンツは、その尋常ならざる走力を最大限に発揮し、脇目も振らずに駈けてきた。上着も剣も全て置いてきて、その身一つ、砂や泥がかかるのも厭わずに、全速力で追いかけてきたのだ。 その姿は、ガモール邸で参上したときよりも、一層頼もしくオディーナには映った。 「どうか、行かないでくださいオディーナ殿」 激しく息を切らしたまま、食い気味にタカトが言った。 「いや、分かっています。君がどうして何も言わず立ち去ったのか、その気持ちは痛いほど伝わってます。しかしそれではまずいのです、その心意気はこれ以上ないくらい尊敬しますが、それでは某たちが困るのです」 「タカトさんたちが、お困りになる」 「大叔父に怒鳴られました」とタカトが言った、「此度の一件で、君に内紛事情の一切を知られてしまったのに、他所にやってしまうとは何事だと。何としても連れ戻して召し抱えるか、あるいは……」 「あるいは?」 「その、某が責任を取れと。嫁に取るなり何なり、とにかくこの地に留まらせなければならないから、すぐに追いかけなさいと」 オディーナは心の中で、これ以上にないくらい絶叫していた。 ——やった、これで堂々と帰れますよ。 だがあえて表には出さず、親指を額に当てて考える仕草をした。 「確かに、タカトさんの言う通りかもしれません」 「その、某と一緒に、戻ってはくれませんか」 「仕方ないですねぇ」とオディーナは言った、「タカトさんのためにも戻ってあげますか」 その言葉を聞いて、これ以上にないくらい安堵した様子のタカトを見た瞬間、とうとう堪え切れなくなったのか、オディーナは少し涙を浮かべながら、 「ありがとう、タカトさん」嬉しそうに笑っていた。 ―完―
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