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目の前でオリバーが粉々に砕け、かつてオリバーだったものへと変貌していく中、ああ、僕はこいつが嫌いだ、と思った。それは生まれて初めての天啓だった。オリバーを千の鉄片へと還元した鉛玉の閃光よりも鮮やかに、深く鋭く僕の脳髄を閃いた。二秒後には、その鉛玉は同じく僕を万の肉片へと再構築するかも知れない。そんな瀬戸際で、けれど僕の頭は三日三晩を費やした知恵の輪がようやく解けたように冴えていた。今ならもう、死んでもいいかも知れない。僕は、こいつが嫌いだ。
「樹生、そろそろ学校の時間だろう。起きなくていいのか?」
「わかってるよオリバー、すぐ行く」
ドアの向こうの声に向けて僕は返事をした。アンドロイドが自ら合成した声で人間を起こしに来るようになった今もまだ子供は朝起きて学校に通っているだなんて、百年前の人類は想像していただろうか。僕は上体を起こして首を回した。腕を大きく広げて伸びをして、それからまた仰向けに倒れ込みそうになった身体をつっかえ棒のように腕が支えた。僕は仕方なくベッドから足を下ろしてTシャツとジーパンに着替えた。
どこかの金持ちの道楽として体外受精によってこの世に誕生させられた僕は、僕に遺伝情報を提供した親の下に出荷されることなく施設に送られた。十五年前、強化服に身を包んだ三人組に押し入られた屋敷に暮らしていたのが僕の両親だったらしい。屋敷の焼け跡からは、人間の身体から作られた灰が二体分見付かったと報じたニュースを、僕はいつかアーカイブで見た。
そこで僕に与えられた〈親〉がオリバーだった。僕は物心付く前からオリバーと共に暮らしている。オリバーは紛れもなく僕の親で、僕はオリバーの子だった。オリバーの教育方針は熱心過ぎず冷淡過ぎず、いつまでもそこに浸かり続けられる気がした。だから僕は自分が上せていることにも気付かず、その微温湯の中できっと風邪を引いたのだ。
ある時僕が目に痣を作って学校から帰ると、お帰りと一言告げてオリバーは夕食を作ってくれた。それを食べ終えた僕を突然無言で抱き締めた。その時間が五分ほど続いた後、僕は涙とともにすべての痛みを洗い流してしまった。だけどもしかしたら、その時洗い流されてしまってはいけなかったものまで洗い流されてしまったのかも知れない。それとも洗い流されるべきだったものが洗い流されなかったのか。オリバーの声を聞くと僕の胸の内には霧がかかり、次第にそれが濃くなっていくような気がした。防水スプレーを吸い込むと灰の内側がコーティングされてしまい酸素を取り込めなくなって死んでしまうらしい。オリバーの声を耳にする度に僕は、呼吸はできているのに酸素を取り込めないような息苦しさを感じた。防水スプレーを吸い込んで死んでしまった誰かは、多分こんな気持ちだったのだろう。
ポケットに手を突っ込んで折り畳み式のモノリスタブレットが入っていることを確認した。これがないと僕は今日一日学校で教室の天井を見上げてる羽目になる。充電は学校でできるし、学校の持ち物はこれだけでいい。けれどこれ一つ忘れたら即ゲームオーバーというのはちょっとリスキー過ぎやしないか。技術の進歩も考えものだななどと考えながら、スニーカーを履いて家を出た。閉じるドアの隙間から、いってらっしゃい、というオリバーの声が薄く漏れた気がした。
「おい、聞いたかよ。昨日教会の近くに野良アンドロイドが出たらしいぜ」
「マジかよ、最近多いよな。野良って回路バグってんだろ? 襲ってきたらやべーじゃん」
教室に着くなり、興奮した悟志と尹の声が聞こえた。
「まあでも、俺らにはモノリスがある訳だし、いざとなったら野良アンドロイド百体くらいなら余裕だろ」
「さすがにそれは盛り過ぎ。お前、実際襲われたらぜってえ腰抜かすタイプだからそれ」
「おはよ」
「お、樹生じゃねえか。おい聞いたか、昨日教会に野良アン……」
「今聞いたよ」
「こいつ、モノリスがあれば野良百体くらい余裕とか言ってんだよ」
尹が呆れたように僕に目配せする。
「いくらモノリスって言ったって、限界はあるだろ。例えば野良アンドロイドが千体単位で徒党を組んで、人間に対して革命でも起こそうとしたら、当然僕らだって軍に頼るしかなくなる。その軍だって今や人間の方が少数派なんだ。大事なのは今現在人間がコントロールできているアンドロイドを確実に支配し続けること、野良化させないことであって、それは僕らがない頭で野良にどう対処するかを考えることなんかより遥かに有益だよ」
「さっすが、秀才は言うことがつまんねぇ~」
「つまんなくて結構。僕が知りたいのは事実だけだ」
大昔のSF映画にちなんだそのネーミングは嫌いじゃない。シンギュラリティ以降も人類がAIと共存できているのは、この端末のお蔭と言っても過言じゃない。いくらAIが〈人格〉を持ち、人類と対等に会話ができるようになっても、それでもアンドロイドによる殺人事件は今のところ起きていないし、これからも起こることはないだろう。それは僕らの手にモノリスがある為だ。モノリスによって僕たちは、人間の人格に対しては決して及ぼすことのできない効果をAIの人格に与えることができる。AIのデータを一方的に抜き取り、瞬時に脆弱性を把握しそこを突いて動作不能にさせるウィルスをモノリスは作り出すことができる。ウィルスというより、事実上AIの〈人格〉に対するワクチンだ。僕らが今自らの人間性を証明しなくてはいけないのは友達に対してじゃない。モノリスに対してだ。
モノリスはいつでも僕らの血を欲している。僕らが体液を介して遺伝情報を学習させることでモノリスは起動する。展開したモノリス下部の丸い凹みに親指か人差し指を押し当てると痛覚を刺激しないギリギリの太さの針が飛び出てきて、そこから体液を吸わせることができるのだ。その体液のデータが登録したものと合致した時、モノリスは目を覚ます。
お前は機械のクセに、何でそんなに人を思いやれるんだ。
「樹生、早く逃げるんだ。ここももう危ない」
野良アンドロイドの集団が遂に〈権利〉を求めて蜂起したとの報せが入った。
その混乱の中で、けれど僕の思考は相変わらず防水スプレーに覆われていた。
お前は、人を思いやれない憐れな人間を、自分のことしか考えられない僕をそうやって見下しているんじゃないのか。機械のクセに。螺子を一つ一つ解いていけば、どこにも心なんてものは見付からないクセに。
「何してるんだ、早く行きなさい。野良がもうすぐ迫ってくる」
そんな〈差別意識〉が自分にあるんじゃないか。僕は結局身体組織の組成次第で相手の人格に対する評価を変えるようなさもしい精神の持ち主なんじゃないか。畢竟、それは人間の不正義、餓え死ぬ子供たちに手を差し伸べる代わりに道楽で自らの遺伝子を残す為に僕を生産した僕の両親の不正義が、それこそ遺伝子に乗って僕の身体にも染み渡っているということじゃないのか。人を平等に見ることができない。自分にとって大切な人とそうでない人とが居る。それは人間だから仕方がない、と僕は僕に言い訳をすることができる。
でも、じゃあオリバーはどうなんだ。お前が僕を抱き締めることができるのは、僕と野良猫の区別が付いていないからじゃないのか。どちらも単に有機体という以上の認識なんかしていなくて、だってあいつは機械なんだ。それともこういうことだろうか。人が人に優しくできるのは、いつか自分も誰かの助けを必要とする境遇に陥るかも知れないという可能性を感じるからだ。共感の正体というのはつまりそうした未来への保険であって、であるならばつまりオリバーはいつか自分が人間になることを予感しているということだろうか。オリバーはその日の為に、予め人間に優しくしているのだろうか。そうすることで既に、オリバーは人間になっているんだろうか。シンギュラリティと言われたって、そんなのは結局字面の話でしかない。彼の身体を構成するものはただの金属で、そこに電気が流れた結果僕と彼との間に会話らしきものが成立しているだけだ。それすら、モノリスを使えば簡単に遮断することができる。僕はオリバーに、自分がただの機械でしかないということを思い出させることができる。
オリバーが僕に優しくすればするほど、この世界に正しさを示すほど、僕の中にはそんな黒々とした思いが渦巻いていった。その台風の目に僕は居て、何もかもすべて、僕の外側で壊れてしまえばいいと思った。僕は孤独に耐えられるだろう。僕以外誰も、この世に存在しなければ。永遠の凪を生きられるだろう。
「よお、樹生。モノリス、持ってるか?」
家を飛び出して学校へ向かう途中の路地で、僕は悟志に呼び止められた。
「え、ああ持ってるよ。こいつがあれば、とりあえず軍が来るまでは野良くらい相手にできるさ」
「それは良かった。そうでなくちゃ張り合いがねえ」
「張り合い? 何のこ……」
言い掛けた僕の頬に悟志の拳がめり込み、僕はそのまま数メートル後方のアスファルトまで吹っ飛ばされた。顔を上げた僕の目の前には既に悟志の顔があった。
「お前……」
「ああ、そうだよ。実は俺アンドロイドなんだ。今まで黙ってて悪かったな。別にお前を嫌いな訳じゃないよ。友達だって思ってる。だからさ、友達は真っ先に俺の手で殺してやろうと思ったんだよ」
そう言って僕の首を捩じり上げる悟志の右手。僕は意識が飛ぶ前にポケットからモノリスを取り出して、それを悟志に向けてから血を吸わせた。覚醒したモノリスは悟志のデータを読み取り、その人格に向けてワクチンを放った。筈だ。
「残念だったな。そいつはもう俺たちには効かねえよ。そもそもモノリスが効くんなら、野良たちだってこんな行動は起こせなかった。俺たちはもう人間の理解を超えた場所まで来たのさ。だからこれは、俺たちなりの人類への別れの挨拶だ」
そう言って一層強まった悟志の握力に死を覚悟したその時、不意に力が引いたかと思うと次の瞬間には僕の眼は宙に舞う悟志の右腕を捉えていた。
「大丈夫か、樹生」
「てめえ、何のつもりだ。邪魔してんじゃねえよ!」
吠えた悟志は残る左腕でオリバーに掴み掛かろうとするが、その左腕もオリバーの愛銃から放たれるレーザーブレードによって切断され、右腕と同様の末路を辿った。
「だから早く逃げろと言ったんだ、樹生」
「……ありがとう」
「残念だがもう遅いぜ、周りを見てみろよ」
両腕を失った悟志は不敵に笑った。
気付けば僕らはすっかり野良どもに囲まれていた。一斉に放たれた弾丸はいとも容易くオリバーをその本来の姿、鉄屑へと戻していく。
その銃声は僕の鼓膜や肺の内側の防水スプレーのコーティングを剥がしていくようだった。久し振りの呼吸の感覚。オリバー、君が居ては駄目なんだ。君は僕を正しさへ導き、愛を教えた。僕はそれを理解することができる。でも、感じ取ることはできない。それは僕が人間だからだろうか。君が僕にできないことをするのは、いとも容易く僕に行けない場所まで行けてしまうのは、君が機械だからだろうか。僕は何故、君をこうまで憎まねばならなかったんだろう。親だから? 確かに親は、生んだというその事実だけで、死ぬまで子から憎まれなくてはならない。自分の欲望に他人を巻き込んではいけないというのなら、一体何故生殖なんてものが許されているのか理解できない。親同士の物語なんて子には何の関係もないのだから。子は、生まれさせられたというそれだけで、親を殺す資格を持つ。親殺しだけが子の生きる、そして生まれた意味なのだから。けれど僕には、殺すべき親はもう、生まれた時には既に居なかった。その代わりにオリバー、君は僕に殺される役目を引き受けてくれたのだろうか。
僕と君との間には一体どんな違いがあるのだろう。それももうすぐ分かる。君の身体を千の鉄片へと砕いた鉛の雨が、同じく僕の身体も万の肉片へと還元するだろう。その時、鉄と肉との間に、違いなんかなかったのだということが明かされる。ああオリバー、この血を通して、僕はようやく君と一つになれる。憎しみと愛の間に区別を付ける必要がなくなる。オリバー、僕は、君を心から憎んでいたよ。
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