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そして5時間後、あの男は再び時間屋を訪れた。
雨はすっかり止んでいて、亜希もとっくに既定の就業時間は過ぎていたのだが、楓から残業代が出ると聞いて、男が戻ってくるのを待っていたのだ。
「ありがとう、商談は今度はうまくいったよ」
楓の手をとって、男は感謝をする。
「良かったです」
「また何かあったら頼む」
男のセリフに楓は眉をあげた。
「いえ。最初に申し上げました。時間を巻き戻せるのは一度だけだと」
「それは今回このケースの話じゃないのか」
「違います。おひとり様一回です」
「なんだ、それ。今時リピーターお断りって。そんなんでやっていけるのか」
「元から営利目的ではないですしねえ」
「人から60万もふんだくっておいてよく言う」
「簡単に時間が巻き戻されて、何度も人生がやり直しが効くのなら、世界はものすごくつまらないじゃないですか。ゲームの世界で生きているのと変わらない」
「…貴様の人生観になんて興味はない」
男は苦々しく吐き捨てて、「世話になったな」と出ていく。最初から最後まで上から目線の独りよがりな男だった。
「戻ってきてくれて良かったですね」
「え」
「商談が成功したかどうかわかって、時田さんも嬉しくないですか?」
「亜希くんは優しいですね。残念ながら、戻ってきたのは彼の良心ではなく――この店に戻ってくることになってるんです、彼らはみな」
「?」
意味がわからないという顔をした亜希に楓は説明をしてくれたが、それは更に意味のわからないものだった。
「つまり、ですね。彼のタイムトラベルはこの店が起点と終点なんです。依頼した瞬間と時空を超えて、過去を変えて、またここに戻ってくる…」
「えっと彼は今日の夕方5時過ぎにこの店に来て、一旦6時間前の過去に飛んだ。その飛んで行った過去から6時間後が、彼にとっての『今』だった、ってことですか?」
「そうなります」
う、ややこしい。亜希は頭を抱え込んでしまう。
「そして戸を出た瞬間に彼は僕たちのことを忘れてしまいます」
男の背中を見送りながら、楓はぽつりと亜希に言う。
「え」
「ないほうがいいんです、タイムトラベルの記憶なんて」
それでもたまに断片的だったり、年月をいくつもまたいでから思い出す人がいて、そういう人の口コミやネットでの書き込みで、この店に『お客様』が絶えることはないのだと言う。
「…やめたくなりましたか?」
楓は亜希の横顔を覗き込みながら聞く。丁寧だけれど、行動は強引なこの男にしては珍しい発言だ。
「ついていけない、という顔をしてるので」
楓の指摘は的外れではない。確かに困惑しているのは事実だ。で
「…私がやめたら、時田さん困りませんか?」
「大いに困ります」
「なら、やめません。私もここしか行くところないので」
「利害の一致ですね。良かった。亜希くん、今日の残業代です」
そう言って楓はいつもよりお金の多く入った封筒を亜希に手渡す。
「ありがとうございます。でもなんか多くないですか?」
「まあ、臨時ボーナス的なものです。これからもよろしくお願いいたします」
謎の多い、世界に一軒だけの店で、亜希はこうして働くことになった。この後も、不思議な超常現象を、亜希はこのお店で、幾度となく目の当たりにすることになるのだが、そのお話はまたの機会に。
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