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「葵ちゃんも食べて行きなよ」  家庭教師の仕事を終えて、帰ろうとしていた葵姉ちゃんを母が呼び止めた。  ほらほら、と半ば強引にリビングへ連れて行くとすでに葵姉ちゃんの分まで夕ご飯がテーブルに用意されている。部屋中に充満しているカレーのいい匂いを嗅ぐと、また俺のお腹がぐぅと小さく鳴った。 「え、わざわざありがとうございます」  わ、カレー! と葵姉ちゃんは目をキラキラさせた。 「昔から葵ちゃんが好きだったやつだよ。せっかくだからいっぱい食べてって」母は嬉しそうに三人分のカレーをよそう。 「親父は?」と俺は母に聞いた。 「父さんは残業だって」  ほら早く座って座って、と母が俺ら二人を急かす。 「葵ちゃんと一緒にご飯食べるのっていつぶりだろうね。高校生までは毎週のように食べてたのに」  母は実の娘が久しぶりに里帰りした時のようにテンションが上がっている。 俺と葵姉ちゃんはいわゆる幼馴染というやつだ。親父同士が中学からの親友らしく、物心ついた時からよく遊んでいた。葵姉ちゃんが大学に進学してからは会う頻度がかなり下がったけど、先月から始まった俺の家庭教師をきっかけにまた戻りつつある。 「大学は楽しい?」 「楽しいですよ、ちょっと自由すぎてハメ外しがちですけど」  えへへ、と笑っている葵姉ちゃんの前で俺は意外そうな顔をした。葵姉ちゃんがハメを外すってどんな姿なんだろう。親父みたいに酔って帰って来たと思ったら、玄関で顔を真っ赤にして眠りについてしまうとかそんな感じだろうか。 「でも葵ちゃん、相変わらず勉強の方もすごいんでしょ?」  聞いたよ留学するって、と母は自分のことを自慢するみたいに誇らしげな顔をしている。  留学? 俺は心臓の周りの血液だけがぼこっと沸騰した気がした。体中に力が入る。 「ええ、もう聞いたんですか?」  ごくん、とカレーを飲み込む音がする。 「先週に決まったんですけど、簡単な試験と面接に受かって行けることになりました」そう話す葵姉ちゃんは満面の笑みだ。 「留学ってどこに、どんくらい行くの?」  力が入っていることを悟られないように、俺は意識していつもよりゆっくり声を出す。   「カナダだよ、トロントってところ。今年の秋から一年間行くんだ」  葵姉ちゃんはカレーをスプーンですくって、パクッと一口食べた。  葵姉ちゃんが食べていると美味しそう見えてくる。俺と同じカレーを食べてるはずなのに。 母は隣でひたすらに「すごいわねぇ」と頷いている。 「そしたら、俺の家庭教師は?」  受験まで見てもらえないの? と尋ねると葵姉ちゃんは眉を下げた。 「うん、ごめんね。家庭教師の話もらった時は留学するかわからなかったからさ」でも安心して、留学するギリギリまで責任持って見てあげるから、と背筋を伸ばして胸をどんと叩く。  違う、そうじゃない。俺はカレーをすくっているスプーンを握る手にぎゅっと力を込めた。 「あんたは幸せだね、短期間でも葵ちゃんに勉強教えてもらえるなんてさ」  母がパクッと口にカレーを頬張った。母がカレーを食べててもそんなに美味しそうには見えない。 「ところで、大輝の方はどうなの?」  葵ちゃんに教えてもらって少しは頭良くなったの、ともぐもぐと口を動かしながら母が尋ねた。 「大輝は上達早いですよ」  俺の代わりに答えた葵姉ちゃんは「ねっ」と俺を見ながら相槌を促すように笑顔を向けた。 「あ、当たり前じゃん」 この調子なら早稲田大学にだって受かるよ、と勢いで俺は母の前で力強く言い放っていた。
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