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まる、まる、まる、といつもと同じように葵姉ちゃんの赤いペンはリズムよく動いている。
「ほんとによく解けるようになったね」
100点という文字の後に、毎度お決まりになった一文をさらさら書き加えながら、葵姉ちゃんは言った。今日は【最後までよく頑張りました!受験までこの調子!】とある。
「最後のなのって葵姉ちゃんだけだから。俺の受験はまだまだ先だし」
全部解けたのも復習プリントだから当たり前、と俺はひねくれたように一言足した。
結局この前のテストは葵姉ちゃんに見せれていない。68点で安心して、なんて言えるはずない。
「ほーんとに最後まで素直じゃないね」
呆れた表情で葵姉ちゃんはカチッとノックして赤ペンの先をしまった。
「私もう来週には飛び立っちゃうんだよ?寂しい!なでなでして!みたいな弟っぽさ出しても良いんじゃない?」
意地悪な笑顔を浮かべながら、「はい」と採点し終わったプリントを渡してくる。【この調子!】の文字が清水先生の文字よりも格段に温かい。
「俺のこといくつだと思ってんの?」
「そうだよね、もう高校三年生だもんね」
ちょっと前まで私に引っ付いてなかなか離れなかったのになぁ、と葵姉ちゃんは昔を思い出すように呟いた。
俺は独り言なのか、話しかけているのかわからずに葵姉ちゃんの様子をじっと見ていた。二人の間に静かな時間が流れる。その沈黙を埋めるように葵姉ちゃんは持っていた赤ペンを指で挟んでクルクルと回していた。
その状況に耐えられなくなり、ほら家帰って留学の準備しなくていいの、と開きかけた俺の口を「あのさ」と言う葵姉ちゃんの声が塞いだ。
「大輝は、私が留学するのって寂しい?」
突然の質問に『は? え、いや、まあ」と俺は曖昧に答えて、口ごもってしまった。葵姉ちゃんの真っ直ぐな瞳が俺を捉えている。
「私は寂しいよ」
「え、それってどういう意味?」
どきどき、と俺の心臓の鼓動が早くなった。
「お母さんにも、お父さんにも、友達にも会えなくなる。それが寂しい」
もちろん大輝にも、と付け加えた葵姉ちゃんを見て、肩の力が抜けていった。なんだ、そう言うことか。
「留学には行きたい。それは間違いないんだけど、やっぱり不安なんだよね」
かつ、かつ、とつめが机に当たる音が聞こえる。いつの間にかに赤ペンを置いていた葵姉ちゃんが落ち着かない様子で指を動かしていた。
かつ、かつ、かつ。
再び二人の間に静かな時間が流れる。
俺の表情を見て葵姉ちゃんがハッとした表情を浮かべる。
「いきなりこんなこと言われても困るよね」
あはは、と無理やり笑いながら葵姉ちゃんは時計をちらっと見た。
「てかもう八時じゃん、帰って留学の準備しないと!」
まだ洋服とか日用品とか全くまとめられてないんだよね、と机の上に散らばっていたペンケースや参考書を急いで片付ける。
「じゃあね!」
そう言い残して葵姉ちゃんは足早に部屋を出て行った。
さっきまで葵姉ちゃんの問題解説が響いていたのが嘘のように、しんと静まり返った俺の部屋。その中で俺は突然の出来事に、葵姉ちゃんが出て行ったドアをぽかんと見つめていた。
留学でしばらく会えないからもっと色々話したかったのに。昔遊んだ話、家庭教師をやりきった感想、俺の受験、葵姉ちゃんの留学。出かかっていた話のタネたちが喉でぐるぐると詰まって息苦しい。
今日という日がこんなあっさり終わるなんて思わなかった。そして何よりも、あんなに葵姉ちゃんの弱気な表情を初めて見た。
一人になって自分の足からしか音が聞こえない部屋をのそのそと歩く。
大輝は葵姉ちゃんが忘れていった赤いペンを拾い上げた後、机の引き出しを開いてプリントの束を取り出した。一枚一枚、プリントをめくる。
【やっぱり努力は身を結ぶね!よくできました!】
【苦手克服!さすが大輝!】
【速読であと10分短縮できれば格段に点数上がるはず!あと一歩!】
そのプリント一枚一枚には葵姉ちゃんが書いてくれた赤い文字たちが俺を元気づけてくれていた。
一番下には【68点】と【もう一歩だ】という清水先生の文字。
そのテスト用紙だけをぐしゃぐしゃ、と丸めてゴミ箱へ放り投げた。
「なんだ、葵姉ちゃんも不安感じてたのか」
カレーを食べて留学の話していた時も、赤文字で一言書いてくれてた時も、問題の解説をしていた時も、葵姉ちゃんは不安だったんだ。なのに葵姉ちゃんはそれを隠してたんだ。
俺はそんな風に考えながらめくり終わった葵姉ちゃんのプリントの束にぐっと力を込めた。
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