ランチタイム

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ランチタイム

 味彩亭は今日も美味しそうな肉汁の匂いを店内に充満させて、昼休みのサラリーマンの飢えを満たしていた。 「ランチ2つでお願いしまーす」  愛さんが声を高らかにウェイトレスさんに注文する。  本日のランチは豚のしょうが焼き、かぼちゃのフライ、ミートコロッケとサラダがワンプレートとなった定食。いつもながらボリューミーだ。  ところで、と前置きをして愛さんは声を潜めた。 「今年の新卒社員は強者揃いだね……」  今朝の退職代行社を利用した社員の話だ。 「退職代行使うって、どういう意味かわかってるんですかねー……」  利用した本人は『退職したい旨』を直接伝えにくいから、代わりに『お願いした』だけなのだろう。  だが。 『退職したい』という意向を第三者から突然、書面で突き付けられた受け手としては『連絡を一切取りたくない』と、連絡手段を全てをシャットアウトされたように感じる。  これは敵意剥き出しの宣戦布告に近い。 「そういえば岡田さんの件はどうなったの?」  愛さんの言う岡田さんとは入社3日で退職した新卒社員で一番最初に辞めた人物で。この負の連鎖のきっかけとなった退職代行社を初めて利用した人物でもある。 「お父様から振り込みがありましたよ」  ノーワークノーペイの原則に従い、岡田さんには月給に対して実稼働の三日分の賃金しか支給されなかったのだが。社会保険加入月に退職した為、社会保険料を徴収しなくてはならず、その分がマイナスとなっていた。  普段はその旨をご本人にお伝えして、翌月の給与から徴収、もしくは振り込みをお願いするところだが。  彼は退職代行を利用しており、会社からの連絡を全て拒絶。急遽、緊急連絡先の父親に事情を説明してマイナス分を振り込んでもらったのだ。 「ああ、よかった。回収出来たんだね」 「本当、お父様が話のわかる方でよかった……」  退職代行を利用する人というのは会社からの連絡を嫌う人が多い。それは『飛ぶ』人も然りで。  会社側の人間としては連絡したいことがあるのに連絡出来ないのは非常に困る。  岡田さんの給与マイナス支給の件が良い例で。緊急連絡先にすら連絡がつかない人も多々いる。 「退職代行って、依頼するとン万取られるんだって。せっかく給与が手に入るのに、そんなところにお金を支払うなんてもったいないよねぇ?」 「本当。一言辞めるって言って、退職届書けば済む話なのに……」  何も難しい話ではない。  辞める意思を示して、書類を書くだけ。  これだけで雇用契約は解除出来る。  そしてこれは。  社会人としてのルールだ。  辞める意向を伝えもせずにフェードアウト出来るのなら雇用契約書など書く意味がない。  それとも。  彼らにとってはン万円支払わねばならないほど、難しいことだったのだろうか。 「まるでうちの会社がブラック企業で。退職希望者を引き留めて辞めさせないみたい……」 「みのりさん的にはブラックじゃないの? うちの会社」 「体育会系だとは思いますけどね……。前の会社がパワハラ酷いわ、コンプライアンス無視して法律スレスレのことやってるわ、サービス残業当たり前だわ、とにかく酷かったから……」  営業メインの会社はどうしても体育会系のノリになってしまうが故、厳しさを感じるが。今の会社は残業の支払いはきちんとしているし、何よりパワハラがない。少なくともこの管理本部においては。 「お待たせしましたー。本日のランチになります」  ちょうどそこへ美味しそうな匂いを漂わせた生姜焼き定食が運ばれてきた。 「みのりさん、ほら、食べよ。食べて午後からの業務に備えなきゃ」  愛さんがテーブル上に置かれた籠からカトラリーを取り出してセッティングする。 「そうですね。片平さんの件は飯塚さんに任せて、私達は私達に出来ることをやるだけですもんね」  もやもやとしたものを抱えたまま、それを食欲に変えて生姜焼きを口に放り込む。  豚肉の肉汁が口の中で溢れるのを感じながら、今出来ること、つまり目の前のランチを平らげることに専念した。
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