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紅子は赤が好きだ。
しかし、その好みは服や靴といった日用品には反映されない。
周囲に理解を得られぬ紅子の好み。それは、赤い色の調味料や食べ物が大好きなことである。
「紅子ちゃん、いらっしゃい!」
「こんにちは、マスター」
大学から徒歩十分のところにある一軒の喫茶店「エピス」は紅子の行きつけのお店だ。流行りに翻弄されず昔ながらの洋食メニューを大事にしているため、客層は会社員や年配の人が中心である。紅子は一度だけ同級生と一緒にここへ来たことがあるが、二度目の機会が訪れたことはない。友人曰く「もっとオシャレな物が食べたい」とのこと。残念だ。こんなに美味しいのに。
「はい、紅子スペシャルね」
店の奥からマスターが持ってきた小さめのバスケット、通称「紅子スペシャル」の中には紅子の大好物が入っている。タバスコ、七味唐辛子、ケチャップ、豆板醤、ラー油。時々キムチが入っていることもある。特殊な好みを持つ紅子のためにマスターが用意したものだ。
「いつもありがとうございます」
「気にしないで。さあ、今日は何にする? 期間限定でビーフシチューも始めたけど」
「ではビーフシチューをお願いします」
「はい、かしこまりました。トマトジュースはサービスだよ」
真っ赤なトマトジュースが入ったグラスをテーブルに置くと、マスターはカウンターの奥へと消えた。
思えば、紅子がこの喫茶店に通ってからかれこれ二年が経とうとしている。気兼ねなく外食を楽しめる僅かなお店の一つだ。
世の中には自分で調味料を持ち歩く人間がいる。マヨネーズやドレッシングを持ち歩く人間は耳にすることもあるが、赤い調味料を数種類、しかも食事のたびに必ず振りかける人間はおおよそいないだろう。
大学の学食では紅子の皿はいうまでもなく真っ赤に染まり、春先は必ず見物人が現れる。新入学生が何事かと覗きに来るからだ。
学食ならまだ面白い人間で済むが、これがレストランやカフェとなると事情が変わってくる。興味津々に向けられる客の視線に疲れ、スタッフの怪訝そうな表情に申し訳なさを感じ、しまいにはシェフに睨まれたこともあるため店選びは慎重になってしまう。「自由気ままに落ち着いて食事をしたい!」と何度心の中で叫んだことだろう。
もちろん学生の身なのでいつも外食ができる訳ではないが、気分転換に他人が作る料理を食べることは必要なことだと紅子は思っている。
そんな中、お世話になっている教授の勧めで足を運んだのがこの喫茶店だ。赤い調味料を大いに振るう紅子を見て、マスターはとても興味深そうに瞳をきらきらとさせていた。パスタ、ハンバーグ、カレーにも問答無用で調味料をかける紅子を見ても「どんどんかけなよ!」と背中を押してくるくらいだ。
「マスターみたいな人とお付き合いできればいいのに」
紅子と付き合ったことのある男は口を揃えて気持ち悪いと言ってきた。最初こそ笑ってくれるが、次第にその表情は呆れを含むものとなり、最後には一緒に食事をするのが辛いと振られてしまうのだ。
それに引き換えマスターの心の広さといったら! ため息をつきながら呟けば、ビーフシチューを運んできたマスターが申し訳なさそうに微笑みながら声をかけてきた。
「ごめんねぇ。私はおじさんだし、もう愛しの妻がいるし、何なら厨房にその奥さんがいるからそれは無理なんだ」
「分かってますって! 略奪する気はありませんよ」
「それは何より」
「うわっ、このビーフシチュー、すごく美味しそう……」
「紅子ちゃんのために奥さんが研究してたからね」
赤い調味料、赤い色の料理が大好きな紅子のために調味料や香辛料の配合に気を遣ったのだという。香りからして一般の家庭料理を超越している。これを千円以下で食べれるなんてと少しだけ驚いてしまう。
食事の時は髪をまとめるようにしている紅子は、ポケットからシュシュを取り出した。身支度を整えて、息をするようにタバスコを振りかける。スプーンを手に取ってシチューをすくおうとした時に、マスターが紅子を呼んだ。
「この店の常連さんで紅子ちゃんと気が合うかもしれない人がいるんだけど、もし良かったらその人を紹介しようか?」
いきなり何を言うんだと紅子が目を点にしていると、マスターはふふっと小さく笑いながら続けた。
「その人は紅子ちゃんと同じ大学に通ってて、彼は薬味が大好きな人なんだ」
「薬味?」
「そう。ざっくり言うと、みょうが、ねぎ、しょうが、大根おろし、からし等々。彼も持ち歩いてて、ここでも使ってるんだよ」
自分以外にもそんな奇妙な人間がいるのかと紅子はシチューを口に運ぶ。思った以上に複雑な香りと味がして、蕩けそうなほどに美味しかった。
「紅子ちゃんのことを話したら『面白いですね』って笑ってたよ。もしかしたら話が合うかもね」
「ううん……」
「いい友達になれるかもしれないし、学部が違う友達ができてもいいじゃない。どうかな?」
この店に通うようになって二年とちょっと。食事と、マスターを含めた店員さんとの会話を楽しむだけの空間だった。そんなところで新しい友達ができるとは思わなかったが、その彼とやらが純粋に気になる。
薬味が大好きな男と、赤い調味料が大好きな女。
いったいどんな会話が生まれるのだろう? 自分と似たような境遇の持ち主なのだろうか? 紅子の興味は尽きない。
「その人の真似じゃないですけど『面白そう』ですね。友達が増えるのも嬉しいし、是非紹介してください」
「分かったよ。彼は毎週木曜の夕方にここに来るんだけど……あれ?」
「木曜は今日ですね。しかもこの時間帯。もしかして狙ってました?」
「いや、狙ってない」
舞台は整った。
あとはドアベルが鳴るのを待つばかりである。
紅子とマスターは笑いながら歓談を続けることにした。
今日が運命の出逢いになるとはお互いに露知らず。
薬味が大好きな男は、喫茶店「エピス」のドアノブに手をかけた。
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