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「君は悪魔というものを信じるかね?」
「悪魔、ですか」
ロバート・デルビンは、予期せぬ質問に言葉を詰まらせる。
ロバートは“LAピープル”誌と契約しているフリーの記者だ。来月の特集記事のために、カジノ王アルフレッド・スタークスの元へとやって来た。
ベガスに在るビルの最上階で、二人は机を挟み向かい合う。
スタークスは、ほぼ無一文という状態から、当時ベガスで人気のあったカジノバーに据えられていたスロットマシンで大当たりを引き出した。
それを原資として起業し、貯えた資金でカジノを買収する。現在ではベガス一のカジノオーナーとして知られていた。
この手のオーナーにしては派手なスキャンダルとも無縁、愛妻家と名高い。
ベガスの絢爛なイメージとは裏腹に実績は堅実そのもので、オフィスにも贅沢な調度品などは見当たらない。唯一の例外が、壁に掛かった豪奢な額である。
額の中には、古びた五十セント玉が一枚ポツンと鈍く光っていた。キャリアのスタートを飾ったジャックポットに関係するもの――そうデルビンは予想する。
六十を過ぎた今では、美食のためかやや腹が出て頭部の薄さも気になるところ。
だが、対峙する人間の本心まで見透かすような眼光は些かも衰えておらず、記者歴の浅いロバートでは、駆け出しに戻ったような気にさせられる。
十分な下調べを済ませてきた記者には、長時間に亘るカジノ王の立身伝は些か退屈に感じた。
起業から富豪に至る道程は、地道な努力と、堅実な投資で拓かれたものだ。それはそれで、記事にするとしても結構なことであろう。
しかし、“カジノ王”という言葉から想像される波乱万丈さが、どうにもスタークスの半生には欠けているように思われる。
期待しすぎたのか、都合の悪い事実は伏せられているのか。
飛び切りのネタは起業より昔にあるのではと、ロバートの勘が囁く。
なぜ彼はベガスをスタートに選んだのか、この根本的な問いに対する答えを、まだ聞いていない。
いよいよ若い頃の裏話でも引き出そうと、最初にこの地へ来た頃の思い出へ会話の水を向けた。
その時いきなり飛び出したのが、先の質問である。
返事に困っているロバートを構わずに、吸い口を切った葉巻を片手で弄びながら、スタークスは言葉を続けた。
「いや、悪魔というのは正しくないな。助けてもらったんだから、天使と呼ぶべきか。ともかく、そいつが私の前に現れたのだよ」
スタークスは、およそ信心深さとは縁の無い人間で、十字架をマイナスドライバーの代わりにする男だというのが、この街での評判だった。
仕事ぶりと合わせて考えると、非常に合理的な人間だと推測される。
先ごろ他界した彼の母親は熱心なカトリックであり、彼が賭場のオーナーであることを嫌って、死ぬ寸前まで口を利かなかったらしい。
そんな男に天使を見たと言われても、ロバートにはどう受け取って良いやらわからなかった。
「この話を他人にするのはこれが初めてだが、誰も信じやしないだろう。記事にはならんものの、ひとつ話のタネに聞かせてやろう」
スタークスは葉巻に火を点け、深く煙を吸い込む。
「ちょうど四十年前、クリスマスのことだ。私は一攫千金を期待してラスベガスに来たが、たった一日で家から持ち出した二千ドルを使い果たした」
「二千ドル全部をですか?」
「硬貨を集めて、二ドルくらいならあったかな。その晩の宿代すら無く、いっそのこと新婚旅行で来てる連中から、金を巻き上げてやろうかとも考えたよ。そんな度胸も消えていたがね」
「その二ドルを持って、最後にカジノ『ヘブン』へ入り、ジャックポットを引き当てた、と」
ロバートが取材前に調べた通りなら、それで大金を掴んだという話だったが、カジノオーナーは首を横に振った。
「私がカジノへ入ったのは、ただの未練からだった。ポケットに五十セント硬貨しかない身分で、いまさら何が賭けられるというのだね」
「でも、スロットならできますよね」
「そんな気分でもなかったな。取り憑かれたようにマシンへ餌を放り込む人間を、遠巻きに見ているだけだった。あの男が現れたのは、その時だ」
立ち上る煙を見ながら話すスタークスは、皮肉な笑いを浮かべた。
「まったく、あんな男をどう表現したものか。ぱっと見は、浮浪者と変わらなかった。薄汚れた外套に黒い頭巾、靴もボロボロだ。しかし声だけは立派なもので、呼び止められたときは、警備員につまみ出されるのかと思ったよ」
「年寄りですか? 髭もじゃとか」
「まあ、若くはなかった。皺の深い顔で、目だけがやたらと光っていた。そう、あのガラス玉みたいな目玉を見れば、私が悪魔だと言いたくなる気持ちも分かるだろうよ」
よほど恐ろしい目をしていたのか、彼は肩を震わせる真似をしてみせる。
悪魔は言い過ぎだろうと考えたロバートだが、ここは黙って彼が話すのに任せた。
「男は手招きして、ついて来いと言った。気圧された私は、素直に言うことを聞き、奥のルーレット台まで行ったんだ。最初は、男の目的がさっぱり分からなかった。ひたすら小さくぶつぶつ呟いてるだけで、私の方を見もしなかったからね」
「何を呟いてたんです?」
「それだ。意味に気づいた時は、たまげたよ。百、二十二、五百五十、三百……。数字の羅列がな、客が賭ける額と同じだったんだ。男が言った数字通りに、客はチップを取り出し、テーブルに置いていった」
それでは予言ではないか――ロバートには信じ難かったものの、熱心に聞くフリを保って、続きを促す。
「じゃあ、スロットではなく、ルーレットで一儲けしたと?」
「男の力で、一儲けさせてくれるのかと思ったよ。ところが、力を見せつけたかっただけらしく、出目の予想はしてくれなかった」
愚図るスタークスは引っ張られて、店の外へ連れ出されたそうだ。路地裏にまで進んでから、謎の男はこう告げる。
『そんなにギャンブルが好きなら、もう一回だけチャンスをやろう』と。
「“希望の箱”をくれると、そう言うんだ。箱は私の物だから、中身はくれてやるとね」
「その中に大金が入っていたとか?」
「そう先を急ぐな。箱を取る上で、注意すべきルールがあったんだよ」
箱に何が入っているかは、スタークスが望む物次第で変わる。
金を願えば金が、名誉が欲すれば名誉を得る礎が、入っていない。
自分が一番に望んだ物は得られず、最も望まない物を獲得するであろうと、男は説明した。
しかも、ここで得られなかった物は、生涯手にすることが出来ないと宣言される。
冷ややかな男の声色は、まさに裁きを下す天啓のようだったらしい。
「欲しいものが封印されるってことじゃないですか。それじゃあ、開ける意味が無い」
「そうかね? 金が無くとも、地位や女は手に入るかもしれんぞ。いや、君なら愛情でも求めるかもしれん。そうすれば、金には困らん人生になろう」
「得るものも、ちゃんとあるわけだ」
「自分が欲しくないだけで、他人なら飛びつくような物が入っていると言っとったな。君なら開けるかね?」
「うーん、自分が一番望まないもの、かあ……」
胡散臭い作り話だとは思うが、記事ネタになりそうな気配を感じ取り、ロバートも自分の回答を考えてみる。
まだこれからの記者が欲しいものは、やはり誰からも認められる名誉だろうか。
華々しい活躍を心に期して箱を開けたなら、叶えられるのは不要な願い。
愛情深き恋人――は必要だ。
財産だって、有るに越したことはない。
一体、何を与えられると言うのか、ロバートには想像が難しかった。
少なくとも、記者として大成することを断念するのが、払う代償となる。
眉間に皴を寄せたロバートを横目に、スタークスは内線でスコッチを取り寄せた。
すぐに運ばれてきたボトルの中身を、彼はグラスへ並々と注ぐ。
「悩んどるな。君も一杯どうだね」
「いえ、取材中は飲まないことにしてますので」
一見、ジレンマに満ちた問い掛けではあったが、ロバートは決然と自分の選択を述べる。
「私なら開けません。夢を諦めることになりますから」
「降って湧いたチャンスを、棒に振るとは思わんのかね?」
「得られるのは、望まない願い。つまりは、要らないものです」
グラスを傾け、スタークスは若者の目を見据える。
ロバートの回答に納得したかは口に出さず、カジノ王は椅子に深く座り直し、話の後段を語った。
言いたいことを告げ終えた頭巾の男は、夜陰に紛れて消え失せた。
字句通り、霧も斯くやと一瞬でいなくなったとか。
呆然と、しかし、教えられた言葉に沿って、スタークスは路地の先へと歩く。
その突き当たり、ゴミが堆く詰まれた一角に、黒塗りの木箱は在った。
空き瓶や紙屑に混じり、真っ黒な“希望の箱”は艶やかで、明らかに異質な存在だったらしい。
月明かりを反射する箱に歩み寄り、スタークスは暫し悩む。
ロバートがそうだったように、彼にも即断するのが難しい命題だった。
「その時、私は金が欲しかった。有り余る金があれば、どんな願いも実現できると考えていたんだ。守銭奴と罵られようが、今も大して変わっておらん」
「それも一つの真理だと思います。批難したりしませんよ」
「無理に追従せんでもいいぞ。ともかく、そんな私が箱を開けたなら、一生、金から縁遠くなると思ったわけだ」
しかしながら、実際には複数のカジノを束ねる富豪となった。
つまり彼はロバートと同じ結論に達し、箱を開けなかったのだと、記者は推察する。
目先の利益より、大願を優先すべし。
スタークスが言いたいのは、そんな教訓だろうか。
これが真逆であったなら――家族や愛を代償にして、金を得たという話なら記事にしやすいものをと、ロバートは少々残念に思った。
「私は箱を開けた」
「は?」
思いがけない言葉に、記者の口がぽかんと開く。
「何が一番欲しいかなんて、その時その時で変わってしまうものだ。歳を食っても金が欲しいとは、限らんだろ?」
「それはそうですが……。じゃあ、大金を諦めたと? いや、そんなのおかしい」
「箱を捨て置いたら、私は素寒貧で放り出されてしまう。何が得られるか分からなかろうが、せっかくの機会をフイにしてはいかん」
だから悩みに悩んだのだと、スタークスは昔を懐かしむように目を閉じた。
仕事も夢も有るロバートと、当時の彼は違う。
陰欝な田舎から逃げ出し、一か八かの賭に出て、全てを失いかけていたのがスタークスだ。
そのまま街の片隅で朽ち果てるのか、何かを獲得して逆転を図るのか。
選択の難易度は、ロバートの比ではなかった。
「男の言ったことを、私は信じた。信じた以上、どうしても選べんかったよ」
「そりゃあ、そうでしょうね。なのに、開けた理由は?」
「コインで決めた。表が出たら開けよう、と」
聖夜の冷え切った空気の中、ピンと弾いたコインが煌めく。
手の甲で受けた五十セント硬貨は、表を向いていた。
彼が木箱に手を掛けると、上蓋はスルリと落ちる。
箱の中に在ったのは、一枚の小切手だった。二万ドルの額面は十分な大金であり、最初に持ち込んだ十倍である。
彼は翌日、小切手を現金化し、それを元手に小さなメッセンジャー業を開いた。
自転車で荷物を運ぶ仕事はまだ物珍しい時代で、街のニーズとも合致して順調に発展する。
出来たコネを活かして情報業へ進出し、さらには運輸会社と合併してそのトップにまで上り詰めた。
そこから転身して、今の彼がいる。
「話が矛盾してませんか? 箱を開けたら、資金を得たってことになりますよね」
「私の一番の願いは、金じゃなかったってことだ。得たのも金ではなく、安定だな」
「……穏やかな生活、とか?」
「カジノを買収したのは郷愁からだよ。自分では、コイン一枚賭けられやしない。ポーカーテーブルに就こうとすると、猛烈な頭痛が襲うんだ」
壁の五十セントも昔を愛惜する為の飾りだと、しばらく彼は背後を振り返ってスコッチを口に含む。
夢を捨てた人生が、果たして幸せなのか。
そんなはずがあるまいと考えつつ、人も羨む成功を収めた男を前にして、ロバートは彼を否定する気にもならない。
向き直したスタークスから、その後もいくらか話を聞き、インタビューは静かに終了した。
部屋から退出する際に、立って見送ってくれたカジノ王の顔を見返す。
微笑む彼の顔が、少しだけ弱々しく見えたのは、ロバートの気のせいとも思えなかった。
書き上げた記事を読んだ編集長は、話にならないと原稿を投げて返す。
こんな与太話、誌面に載せられるわけないだろうと、大袈裟に両手を挙げて嘆息された。
ロバートにしても、冷静に思い返せば、富豪の余興に付き合わされた気がしてくる。
とは言え、記事の最後で語られたスタークスの言葉は、編集長にも好評だった。
箱を開けたことを後悔しているかというロバートの質問に、スタークスは至って真面目に返答する。
「世の中はギャンブル、サイの目で針路を定めて、コインで決断する。それがベガスのルールだ」
なるほど、それは人生を賭した男の言葉だった。
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