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わたしのお嬢様よ
パルムのすすめで桜色の絹のショールを羽織ったリーゼロッテは、彼を肩に乗せて、葡萄酒色をした絨毯の敷かれた二階の廊下を歩いていた。
カレルの町のあるリーウィック地方は、カルディア王国の北東部に位置する。暦の上では春が来たとはいえ、まだ肌寒い日の方が圧倒的に多い。
窓の外は青く晴れていて、いかにも気持ちよさそうに見えるのだが、暖炉で暖められた部屋の外に出ると寒さを感じた。屋敷内の廊下でも寒いのだから、まだリーゼロッテに庭に出る許可がおりないのも仕方がない。
自室のひとつ奥は内側でつづきになっている寝室、その隣は母の部屋だった。
いまはもう主のいない静かな部屋。
……おかあさまはかえってこないわ。だって、土のしたにうめられてしまったもの。
そうと知っていながら何日待っただろうか。いまはいなくとも、そのうちに帰ってくる気がしてならなくて、毎日待ちつづけた。だが時間がたつうちに、リーゼロッテの心は少しずつ現実を見つめ始めていた。
エステルを始めとする大人たちからは、お母様の魂は神々のおわす天の国に行ったのだと教えられたが、本当だろうか。
母がどこかに行くときに、だまってリーゼロッテを置いていくとは思えない。あんなに仲良しだったのに、どうして連れに来てはくれないのだろう。
パルムが言うように、「目を開けていても見えるようになる」日はいつなのだろう?
母の部屋の扉が目に入るとき、母とともに歩いた廊下を進むとき。以前とはもう違うのだと思わずにはいられなかった。家族はいない。わたしはひとりなんだ。いつも一緒にいた母はもう側にいてはくれないのだと。
きゅうっと胸がしめつけられた。ここから、そんな悲しいことを考えてしまう場所から逃げたくなってしまう。
つらいことを考えなくても済んだやすらかなベッドの中が、恋しくなることもあった。
だが、そんなとき、
「今日のディナーはなんでしょうねぇ。おいしいものだといいですね。お肉がいいな」
肩の辺りからのんきな声がした。まるでリーゼロッテの苦しい心の内を見透かしたようなタイミングだった。
いつもそうなのだ、パルムは。
リーゼロッテが打ち沈み、感傷に浸ることを許してくれない。
「お腹すきましたね。お肉……肉……」
そうつぶやくパルムの口ぶりが間が抜けていたので、思わず笑ってしまった。
「パルムはたべないでしょう?」
「ええ。でも、リーゼがおいしいと感じると、僕の心もおいしいもので満たされるのです」
「そうなの?」
「そうです。だって僕はリーゼのことが大好きなんですから」
調子よくパルムは答えた。
「おもしろいのね。それもまほうなの?」
リーゼロッテが尋ねると、パルムはうれしそうな声で言った。
「そうです。魔法です。あとね、愛」
「あい!」
リーゼロッテは叫ぶように繰り返すとけらけら笑った。愛されていると告げられてうれしかったのと、ちいさなぬいぐるみが、おおげさな言葉を使うのがおもしろかったのとで。
「あら、お嬢様。まあ、そんな薄着で」
春仕立ての綿のドレスに薄いショール一枚だけを羽織った姿で階段を降りてくるリーゼロッテを見て、玄関ホールの清掃をしていたエステルが慌てたように声をあげた。
「少々お待ちくださいませ」と言いながら主の横を通り抜け、急ぎ足で二階に上がってゆくと、間もなく厚い真冬用の毛織物のショールを手に降りてきた。
自分で着たショールを脱ぐことを拒んだため、重ねてもう一枚のショールをぐるぐる巻かれることになったリーゼロッテは、不満げに言った。
「もうきてたわ」
「春といってもまだ風が冷たいですから、あのような薄手のもの一枚だけでは心もとありません。お風邪を召されてはたいへんです」
エステルの言葉にリーゼロッテはしぶしぶうなずいた。ショールを重ね着することが不満なのではない。ちゃんと自分でできたことを否定されたような気がしておもしろくなかったのだ。
ふと、静かになりゆきを見守っているらしいパルムのことが気になった。
自分はひとりで散歩をしているのではないのだ。エステルに頼んでみる。
「パルムにもきせてあげて?」
「僕はだいじょうぶですよ。このとおり毛でふわふわですし、寒くないですからね」
のんびりと答えるパルムを、リーゼロッテは「めっ」と叱りつけた。
「こころもとないわ。おかぜをめされたら、たいへんよ?」
大人のような物言いで諭すのはよい気分だった。一気に年齢を重ねて偉くなった気がする。
パルムは物知りで賢いが、リーゼロッテの膝丈ほどのちいささなのだから、ときには弟あつかいしてもよいだろうと思った。それに彼は怒ったりしないし。
自分より幼い者と関わった経験の極めて少ないリーゼロッテは、いままで味わったことのないその魅力に恍惚とした思いだった。大人たちがやたらお説教をしたがる気持ちがわかった気がする。
エステルは困惑した様子ながらも承知の意を述べて、パルムの着替えを取りに行った。
彼女の持ってきた大判のハンカチは、黒地に赤や緑でちいさな草花や鳥が細かくデザインされており、それなりに上等に見えるものだったので、リーゼロッテはうれしく思った。エステルも、かわいいふかふかパルムを大切に思ってくれているのだろうと。
エステルは細い指で器用にハンカチを曲げて、長さを調節しながらパルムにかけると、肩の所を楕円の暗褐色のブローチで留め、背丈ほどのマントを羽織っている風に仕立てた。
リーゼロッテは満足して言った。「にあってるわ」
パルムは軽く笑ったようだった。
「僕は体が丈夫だから心配いらないんですけどね。リーゼが元気なら、それでいいのです」
「わたしはげんきよ。……いまはげんきよ」
そう言葉にしながら、いつの間にか楽しさで心が満たされている自分のことが不思議になった。
いつからこんなに元気なんだろう?
自室を出て母の部屋を見たときには、もっと心も沈んでいて、元気とまでは言えない状態だったのに。
部屋のドアを開けた直後より、いまのほうが心も体も軽やかだ。
パルムがなにかしたのだろうか?
「げんきでないときもあるの。でも、いまはね、たのしいし、からだもとってもかるいの。どうしてなの? パルムがまほうをかけたの?」
「魔法かもしれませんね」
やっぱり! すごい!
と、リーゼロッテが声をあげようとすると、パルムが先手を打って切りこんだ。
「かけたのはあなたなのですよ、リーゼ」
「……え」
いつもより少し低い声に、リーゼロッテは戸惑った。底抜けにやさしくて、ふざけてばかりのパルムらしくない。細やかな子どもの心は、ささいなひっかかりを見過ごさなかった。
彼の胸のうちに、その言葉以上のなにかがあるような気がしたのだ。ちいさなぬいぐるみが、急に大人に感じられた。
それっきりパルムは口をつぐんだ。リーゼロッテが「どうして?」と尋ねても、「どうしてでしょうね」と楽しそうにつぶやくだけ。
パルムは物知りなのに、ときどきちょっと意地悪だとリーゼロッテは思った。たびたびこんなふうに曖昧に返事をして、その答えをリーゼロッテにゆだねることがあるからだ。
「ああっ! わあ、こんなとこ歩いてる! お嬢様だ! お嬢様ー!!」
エステルが掃除に戻るとほぼ同時に、通路の奥から顔を覗かせたミアが、満面の笑みを浮かべて、とすとすと駆け寄ってきた。山のように抱えていたカーテンらしきものを無造作にそこらに放り出すと、たまらないように手を伸ばして叫んだ。
「さっきぶりですね! お嬢様が歩くとこ、何度見てもいいですねぇ。お散歩ですか? 抱っこしてもいいですか?」
せわしなく語りつづけながら、待ちきれないように、太くてたくましい腕をリーゼロッテに伸ばした。
慌てた様子でパルムが子どもの肩から飛び降りた。
ミアはリーゼロッテを軽々と抱えあげると、かわいくてたまらないように豊満な胸に抱き、頬ずりをした。
「あははっ! 重くなりましたねぇ。もう元気ですね。よかったです。元気ですね」
「とってもげんきよ」
リーゼロッテはくすくす笑いながら答えた。丸い目を輝かせるミアは落ち着きのない無邪気な子犬に似ていて、全身から愛嬌をみなぎらせている。
十六歳になる彼女だが、他の大人のようにお説教もしないし、言うことがまるで子どものようなので親しみやすかった。
「騒がしいからなにかと思えば……。あらまあ、洗濯物を放り出して」
あきれたような声とともにカティヤが近づいてきた。箒を手にしている。
「あたしだってお嬢様を抱っこしたいですわ。……ミア、ひとりじめしないでよ。みんなの大切なお嬢様よ」
そうぼやいた。
まったくのうそでもないだろうが、箒を壁に立てかけるときの、その少々、口の端の上がった顔には、「掃除をサボる口実ができてラッキー」という色も拭えなかった。
カティヤは、仕事中も他のメイドのように髪を結い上げることなく、いつもよく櫛を通しては、艶を出すために整髪用の植物油をぬり、見せつけるように背中に長く垂らしていた。
燃えるように濃い赤髪はこの辺りではめずらしく、彼女の自慢でもあり、髪が傷むからと毎日結うことをいやがった。亡き奥方がそれを許したことで、規則にうるさいエステルもお小言を引っこめた。が、内心では使用人としての自覚に欠け、なおかつ不潔だと不満を抱えている様子だった。
ミアも、くるくると巻くくせのある淡い茶色の髪を結ってはいないが、これは不器用なため、ひとりできれいに結い上げることができないからだった。その代わり、肩の上で短く切っている。
カティヤは、ミアに抱かれるリーゼロッテに向けて、すらりとした手を伸ばした。
「お嬢様だってあたしのほうに抱かれたいでしょう? 綺麗な人に抱かれたほうがいいに決まってますわ。ミアじゃあねぇ……。ふふっ、美しいお母様とちがいすぎますもんね」
リーゼロッテは困ってしまった。
ミアはやさしくて親しみやすいし、カティヤは美しい上にセンスもよく、リーゼロッテのことも綺麗に着飾らせてくれるので尊敬している。どちらのことも好きだし、どちらかが傷つくのはいやだった。
どんなふうに気持ちを伝えたらよいだろうか。
「ええっとね……。わたし……」
床上のパルムが気づかわしげに、その幼い困惑顔を見上げている。
「……あのね、カティヤはびじんで、せがたかくて、おかあさまとにてるの。いつもすてきで、だいすきよ」
考えながら言葉を口にするリーゼロッテを見て、赤髪のメイドは満足げにうなずいた。
「そうですわ。遠慮しなくていいんですよ。もっと言ってやってくださいな」
鼻をそびやかすカティヤを見てから、リーゼロッテはミアの胸元に目をやった。ふくよかで力持ちな彼女に抱かれていると、えも言われぬ安心感に包まれる。そのあたたかい頼もしさは、母の胸に抱かれていた時に感じていたものと似ている。
「包容力」という語彙を知らないリーゼロッテは、必死に自分なりに言葉を探していた。
「……でもね、ミアは力もちだし、ふかふかできもちいいの。うでがふっくらしていて、おむねも大きくて、おかあさまみたいなの。だからね、ミアにだっこされたい……」
申し訳なさそうに小声になりながら、リーゼロッテは断りの言葉を述べた。
カティヤは口を開けたまま固まった。
(おむね……胸?)
「カティヤは美しくてお母様と似ていて大好き」という言葉を期待していただけなのに。腕の太さはいいとして、まさか胸のことまでどうこう言われるなんて……。
リーゼロッテの瞳には、悪気などひとかけらもなかった。むしろ気を使いながらも、ただ己の気持ちを正直に述べただけだ。
悪意の欠片もない子どもの正直さは、時に心を突き刺す刃となるのだ。
ふふっ……と床の方からちいさな笑い声がして、カティヤはそちらをにらみつけた。水色のぬいぐるみは口元に手を当てながら、気まずそうにメイドに向けて肩をすくめてみせた。
ぬいぐるみを肩に乗せたちいさな背中が遠ざかってゆくのを見守ったあと、ミアはカーテンの山を抱えた。
「お嬢様、元気でしたね。もうだいじょうぶですねえ。さ、お洗濯、お洗濯」
「なによ、あいつ。生意気すぎよ」
悔しそうにカティヤが吐き捨てた。
ミアはぽかんとして尋ねた。
「お嬢様がですか? 生意気なとこなんてないですよ」
「んなわけないでしょ。あの新入りよ。お嬢様のお気に入りだからって、でかい面しちゃってさ。先輩に対する敬意が感じられないわよ」
「えぇ。んん~……。でもっ、とってもいい人でしたよ。こないだ、お嬢様がお昼寝してるときに、お洗濯を手伝ってくれましたよ」
ミアがにこにこ笑うのを、カティヤは渋い顔でにらんだ。
「少しでも手が空いたなら他の仕事をするのは当たり前でしょ。元は貴族の従僕だか知らないけど、ここでは新入りなんだからさ。まだ正式採用でもないんだし、甘やかしちゃだめよ」
「で、でも、カティヤさんだって、喜んでたじゃないんですか……? かっこいい男の人が来たって言って……」
「顔だけはね、及第点をあげてもいいわ。でも生意気なのよ」
それから、口をとがらせて悔しそうにつづけた。
「そりゃ、感謝もしてるわよ。お嬢様のことは、とってもね。でもさ、あんなもん使ったら誰だって気に入られるでしょ? いくらお嬢様のためだからって、ずるいわ。あたしのほうがずっと長いのに、一番のお気に入りみたいな顔しちゃってさ」
それを聞いて、ミアはようやく合点がいったようにうなずいた。
「ふたりがとっても仲良しだから、カティヤさん、寂しいんですね」
「はあ? 話聞いてたの?」
なんでそうなるのよ、と不機嫌を濃くするカティヤを、
「みんなで仲良くしましょうよ。そしたら、楽しくなりますよ。ね」
と、明るい声で励ましてから、うんしょうんしょと洗濯物の山を運んで去って行った。
「仲良くとか、そういう……」
遠ざかってゆく丸い背中に反論しようとしたカティヤに、
「掃除に戻りなさい、カティヤ・エーメリー。いつまで怠けるつもりなの?」
エステルの厳しい叱責が飛んだ。カティヤのサボりは日常茶飯事なので、目をつけられているのだ。
カティヤは舌打ちをしたが、だけどまあまあ休憩できたからいいかと思いながら、箒を手にのろのろと足を引きずって持ち場に戻っていった。
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