妻とその母

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妻とその母

「あらあらどうしたの二人して」 「ただ今お母さん。しばらく私とこの子をここで預かってくれない」 「喧嘩でもしたの」 「喧嘩。うん喧嘩というほどではないかもしれないけど、やっぱり心は穏やかではない」 「聞かせてごらんなさい」 「もう一人欲しいね、って話したのね」 「いいじゃない。待ってましたっ」 「うん、そういう掛け声は遠慮しとくわ」 「失礼」 「友達から、精子と卵子を提供すれば十月十日(とつきとおか)を装置の中で育ててくれる、っていう産科を紹介されたのね」 「……どういうことかしら。お母さんちょっと言ってることが分からないわ」 「つまりね、子を産むには女性はいろいろ大変でしょ、腹は膨れて日常の動作は困難、気持ちは悪い、嗜好は変わる、分娩のときには長い時間をかけて体を中から引き裂かれるような痛みを味わって、時に外から切り裂かれたりもするわけでしょ」 「帝王切開とか陰部切開とかそういうことかしら」 「そう。だから、装置、これは私も実際に産科で見た桃みたいなやつなんだけど、その装置の中で赤子を育てるの。そうすれば、妊娠や分娩で生じる不都合がなくなり、安全に赤子をこの手に抱くことができる、ってわけ」 「……」 「友達はそれでもう三人も。産むのは楽だけど育てるのは大変、って言ってた。年子でもあるし」 「……」 「お金も、普通の出産とあまり変わらないんだって。必要なのは、精子と卵子の提供だけ。あとは全部産科でやってくれる」 「……」 「先生も、女性なんだけどとてもくだけた人。自分でも一人産んで、あんまり大変だったからその装置を作って二人目はそれで育てたらしいよ」 「……」 「どうしたのお母さん」 「……そんなの、そんなのって」 「え」 「……子を産むのに、そんな楽をするなんて」 「ちょっと」 「最高じゃないの」 「あ、そっち」 「最高よ。すごい楽じゃない。私だってそっちの方が良かった」 「そうよね、私も一人目のときは」 「三人も苦しんで産んだのよ。初産の時なんかほんとに死ぬかと思った。なのに、男どもは見て見ぬふりするし、女どもはこんなの当たり前だ我慢しろしか言わないし、こいつら殺してやろうかと思ったわ」 「ちょっとちょっと」 「二人目、三人目になったってちっとも慣れやしない。血圧は高くなるし、むくむし、歯だってぼろぼろになって」 「ちょ、ちょっと落ち着いて」 「何よ。あなたが一番大変だったのよっ。あんなに痛いなんて聞いてなかったんだから」 「わかった、わかったから。でもあれでしょ、かわいかっただろ私は」 「そうねぇ、あのころはそれはもう。育つにつれてどんどん生意気になっちゃって。覚えてるかしらあなた、十歳にもならないのに私と手をつなぐのは嫌だって言いだして、あの時どんなにショックだったか」 「ストップ。きりがない」 「はいはい、で、何。それがどうしたの」 「うん、でね、彼にも言ったわけ。私も二人目はその機械で作りたい、って。そしたらね、何言ってんだ、って」 「何言ってんだ、って何よ」 「あのね、お腹を痛めて産むからこそ子に愛情を持てるんだ、みたいなことを言ってた」 「はぁ? それこそ何言ってるの、って話じゃない。だったらわが子を殺す母親なんか存在するわけないじゃない。自分の子供をかわいがれるかどうかなんて、痛みの代償でも個人の資質でもないわ。環境で決まるのよ。」 「もう涙が出てきちゃってさ。確かに生まれたときに達成感はあったけど、それは、やっと終わった、って類のやつだし、それと子に感じるかわいさとは関係ないと思うんだよね」 「産んだこともないのによくも知ったようなことを。だいたいあなたの出産のときだってあの人手を握ってるだけでろくに目も開けていられなかったじゃないの。連れてきなさいよここに。説教してやる。いやこっちから行こうかしら」 「多分家にはいないよ。私が泣き出したから向こうもあわててさ、産科の場所聞いて飛び出していったよ。詳しいことを聞きたかったんじゃないかな」 「まったく、優しそうな顔してるくせに出てくるセリフが干からびてるじゃない。男ってのは何世代経っても変わらないのね」 「でも私も、話の切り出し方が急すぎたのかもしれない。お母さんに話したら急に気が晴れたわ。そろそろ帰ろうかな」 「待ちなさい。あなた当分ここにいなさい。向こうが謝るまで帰っちゃだめよ」 「えぇ、でも」 「だめよ。まずはお父さんに線香でもあげてきなさい。それから出前でも取りましょうか」
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