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寒薙の帰還
「鹿呼志の悲劇は知っておろう?」
ひと抱えもある、透明度の高い氷のような水晶の柱から男性の声が発せられた。
傍らに立つ結髪の乙女は、口頭試問にでもあったようにはっきりとした口調で答えた。
「七十二年前の震災のときに孤島に取り残された住民の件でありまする。津波で人的被害は免れたものの救助の手が遅れ、五日後に救援隊が入り申した時すでに遅く、疲れと病から半数が亡くなり、島から避難した住民も高齢者ばかりだったこともあり、二年の間にすべて……」
「そうだ。平均年齢が七十歳をこえておった。唯一のおさな子は、小椋澪」
乙女は緋袴をきゅっと握った。
「離れて暮らす父母の助けを待ちわび、港へ来ていた澪どのは波にさらわれたと」
寒薙の体がぴくりと動いた。
『カンナギ霊導師、帰還中。完全定着まで五分』
寒薙は白装束で、目を閉じて正座していた。桧造りの板の間、壁に設えた祭壇を前にして、こうべを深く垂れている。
「イワサキは帰還を見るのは初めてか」
水晶柱と乙女は部屋の隅で寒薙の様子を見守っている。
「お話には伺っておりましたが、これほどだとは。想像の域を越えておりまする」
「潜行のときは生身も霊体での姿かたちをとる。とはいえ、ここまで具現化できるのはカンナギの能力の高さゆえ。見ておくがよい。稀代のカンナギの御業を」
モニタールームからのカンウントダウンに合わせるように、寒薙の肌は張りを失い、体は小さくしぼみ始めた。
ショートの黒髪は縮む体に反して、白く輝きながら床につくほど伸びていった。うつむいていたカンナギの背筋が真っ直ぐになった。
『定着完了。第二十三代、寒薙來涙様、無事ご帰還されました』
寒薙は、大きく息を吐き床にうずくまった。
「カンナギ様!」
イワサキが駆け寄り、寒薙が起きあがる手助けをした。
背中を支えられ、体を起こした寒薙は小さな老婆だった。起こされてしばらくは胸元を見ていた。まるでそこにあるはずのものを眺めるように。
「紐……でございますか? 赤い紐というか糸が見えまする」
「貴女には見えるのね。ああ、我が母の波動によく似ている。あたたかく心地よい」
イワサキははにかみ、寒薙は頬の皺を深めてほほえんだ。
「これは、あの子の置き土産。間もなく消えていく残り香」
寒薙は胸に手をあてた。
水晶柱が滑るようにして寒薙のそばに来た。
「これで鹿呼志の悲劇は潔斎された。六十年の長きに渡る少女の怨念は祓われたな。荒れ狂う海は穏やかとなり、工期の遅れは取り戻されよう」
寒薙は白くなった眉をよせ、目をつぶった。
『サカキさま、本社より連絡が入りました。鹿呼志島に接岸成功。これより猫の保護のため上陸するそうです』
中空にモニターが出現し、現在の鹿呼志島が写された。浸水ぎみの漁港と津波に押し倒され、そのまま放置されている防潮堤。それが今の島の様相なのだ。
水晶柱の内部に明かりが走った。
「さっそく作戦開始だ。失われたイエ猫の遺伝子サンプルを手に入れられるとあっては、イザナギ・コーポレーションの連中は笑いが止まらないだろうよ」
砕けた口調には、批判めいた色合いがにじむ。
「カンナギ、大儀であった。ハラもサイカワも、これでようよう帰還がかなう」
「あなた様がゆかれたら、よろしかったのに」
寒薙は白装束のうえから金糸の織り込まれた小桂を羽織り、イワサキに助けられて立ち上がった。
「霊体であるわたしに何ができよう。実体を維持できぬ。それにこたびは、貴女でなくては出来ぬこと……」
「承知しております。なれど、ひとつだけ。澪さんは怨みなどなかったのです。あの場所で待っていただけ……それだけなのでございます」
水晶柱がかすかに揺れたのは同じ見解と言うことだろうか。
「あの島は、この先どのようになるのですか」
「イザナギ・コーポレーションは、月や火星からの懐古趣味の連中を狙って、島を津波以前の姿に戻すだろう。猫とふれ合える癒しのリゾートにしたいらしい」
「さようでございますか。目ざとい彼らが考えそうなことですこと」
寒薙は水晶柱に深々とお辞儀をし、イワサキに手を引かれて部屋から退出した。廊下は研かれた桧が敷かれている。
「イザナギのおかげで私のような者でも、お役に立てるのは光栄なことだけれど」
「カンナギ様は素晴らしゅうございます。半世紀以上手をこまねいていた霊を次々に鎮めていらして」
ふふふと寒薙は忍び笑いした。
「そうでなくては生きられぬ。このような場所に封じられては」
寒薙は足を止め、廊下にはめられた大きな窓から外を見やった。
窓の外は漆黒の闇、眼下に青い地球が浮かんでいた。
「魂ならば、どこへでもゆける。貴女は幾つからここに?」
「二歳の適性検査で、こちらへ買い取られましたゆえ……十五年となりまする」
そう、と寒薙は乙女を慈しむように見上げた。
「いつかまたあの島へ行きたいわ。美しい島なの」
寒薙は窓に手をあて、鹿呼志の当たりを指差した。
鹿呼志島は息を吹き返すだろうか。猫たちが気ままに過ごし、住民たちの笑い声が再びこだまするだろうか。
「違うわ……いつか戻って行くのね。私もみーちゃんも。……きっと、猫になって」
寒薙はいつまでも窓辺にたたずみ、青く輝く故郷を見つめた。
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