(二)

1/1

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ

(二)

 「なぜ、高悠寺が火事と気付かれたのですか」  病院から高悠寺に戻るタクシーの後部座席で、すみ子が訊ねた。  「真夜中にふっと眼を覚ました時に、焦げ臭い匂いがしましてね。窓を開けていたもので、近いところで火事だと直感したんです。すぐに着替えて現場に到着しました」  井中カオルは、近隣にある高雄中学の社会科教師。濃紺の作務衣は、授業中も常に身に着けているものだ。その特異なスタイルゆえ、生徒には人気がある一方、PTAには不評な男である。  「で、すぐに一一九番された?」  「いえ。山門の二階に、人の動く気配を感じたんです。もし誰かいるなら自分が救助しないと間に合わないかもと思い、ちょっと様子を観察しました」  すみ子は、カオルの横顔をまじまじと見た。  「よく、わかりましたね…。私からは外の様子は見えなかったのに」  「長年、観察眼を鍛えて来た成果です」  カオルは、無表情に前方を見ている。  「ちょっとといっても数秒です。炎に包まれた屋根が崩れ落ちて、あなたが落ちて来た。一か八か、その下に駆け込んで、あなたをキャッチしました。意識を失っていらしたので、救急車を要請したんです」  「なるほど…」  すみ子は唾を呑み込んだ。  「だから私、殆ど無傷で済んだんですね…。山門の二階は、地面から四、五メートルはあります。キャッチしていただかなかったら、死んでいたかもしれません。井中先生は、命の恩人です」  「ふふ。それは大袈裟です。当然のことをしただけですよ」  カオルは、ニッと笑った。  (あ。笑った)  すみ子は一瞬状況を忘れ、嬉しくなった。  (美結の結婚式の時は、ずっと無表情だったのに…。井中先生の笑顔を見られるなんて、すごいかも)  すみ子とカオルは、お互いの友人同士の結婚式で顔を合わせている。カオルが司会者として、新婦の父親殺しの冤罪を証明しようとし、すみ子がこれをサポートした経緯がある。  (いけない。今はそんなこと考えてる場合じゃない)  すみ子が首を振った時、タクシーが停車した。  「着きましたよ」  運転手がぶっきらぼうに告げる。  高悠寺の門前に着いたのだ。  「ああ、酷い…」  タクシーを降りると、すみ子は顔を覆った。  山門は二階部分が全て焼け落ち、四方の柱だけが炭化した状態で残っている。  一階に安置されている仁王像は、上から降って来た灰で真っ黒に覆われていた。  警察による現場検証はすでに終わっているようで、「立ち入り禁止」の札が吊されたロープが焼け跡を囲んでいる。  「しかし、説明がつかないな」  カオルは顎に手を当てた。  「説明?」  「本堂なら供えてあった蝋燭とかが何かの拍子に倒れて炎上、もありますが…。山門では普通、火の気はないでしょう。電気は引いてありましたか」  「いいえ。照明も設置してなかったので。電線はない状態でした」  「なら、漏電でもない」  すみ子の顔から、血の気が引いた。  「じゃあ、もしかして放火? 恨みを買うようなトラブル、あったかなあ…」  「トラブルはなくても、愉快犯で火を点ける人間もいますから」  カオルはすみ子に向かい、頭を下げた。  「すみません…。ただでさえショックを受けてらっしゃるところ、不安を増大するようなことを言いまして。明日以降、警察が色々聞きに来るでしょうから、心の準備はしておいた方が」  「はい。ご心配いただいて、ありがとうございます」  すみ子はカオルから眼を離し、焼け跡に視線を転じた。  「私、守れなかった…。死んだ両親と修行中の弟から、お寺を預かっていたのに」  すみ子は膝を突き、顔を掌で覆った。  指の間から、涙の雫が零れる。  「あの山門には、先祖代々受け継がれている大事なものが隠されていたんです。それを火事から救い出す積りで、一人で命がけなんて、いい気になって…。結局、何もできなかった」  カオルはすみ子の背後に回り、そっと背中を撫でた。  「落ち込むことは、ありませんよ。もし放火なら、あなたのせいじゃないし。あの炎の中に飛び込むなんて、すごい勇気だ。それに…」  カオルは左手にぶら下げていた黒いトートバッグに手を入れた。  「あなたが救い出そうとしたのは、ひょっとしてこれではありませんか?」  出て来たのは、茶色い壺の破片だった。僅かに、黒い焦げ跡が付いている。  「あなたと一緒にこれが落下して来たのがわかったんです。もしかしてこれを救い出すために、あそこにいらしたのでは、と直感しましてね。落ちて来た時はあなたの体の方が大事ですから割れるに任せましたが、念のため破片を拾い集めておいたんですよ」  すみ子は顔から手を離し、立ち上がった。  「あっ。これです! この壺です」  すみ子は額に手をやり、俯いた。  「何かこの中に、入っていなかったでしょうか? 恥ずかしながら私、壺の中身が何だったのか知らないんです」  父親に見てはいけないと言われ、素直に従っていただけなのだが、第三者であるカオルにわざわざ拾って貰ったのが、キマリが悪かった。  「はい。多分、これです」  カオルは再び、 トートバッグに手を入れた。  「えっ。これって…」  すみ子は眼を見開いた。  頑丈な金属で四方を固めた四角い木箱が、カオルの手の中にあった。  「このおはぎ、あなたの手作りですか。美味しい。実に美味しいです」  昼食代わりにと出したおはぎを三個四個と次々に平らげるカオル。その口元と机上に置かれた四角い箱を見比べながら、すみ子は葛藤していた。  (父からは、決して中を見てはいけないと言われてたからなあ)  今二人は、すみ子が暮らす庫裏の応接間で、向かい合ってソファーに腰掛けている。  すみ子は藤色のワンピースに着替え、真紅の鮮やかな口紅を差している。薄く化粧をした頬に、右手人指し指を当てた。  (でも、すでに壺から出てしまっているし、第三者である井中先生に存在を知られてしまってる…。だけど)  すみ子の思考は反転する。  (開けてみて何かとんでもないことになったら困るし…)  「この箱のことですか」  五個めのおはぎを食べ終わったカオルが、緑茶を啜りながら言った。  「えっ」  すみ子は見開いた眼を、カオルに向けた。  「私が考えていること、わかるんですか」  「観察していれば、わかります。先ほどから僕とその箱に視線が行ったり来たりですよ」  すみ子はため息をついた。  「正直、ちょっと怖いんです。この中身を見ることは、亡くなった父に固く禁じられてまして。開けて悪霊か何かに祟られたりしないかって」  カオルは笑った。  「見たところただの古い箱ですよ。祟りって人間が勝手に作り上げた幻想が殆どだ。怖がることないですよ」  すみ子は額に眉を寄せた。  「そうおっしゃるんだったら、一緒に中を見ていただけますか」  「勿論。望むところです」  (不思議…。あっさり自分の迷いを否定されて、勇気が湧いて来た)  「この箱。先日美結の結婚式の時見たのと、似てるんですよね。形もサイズも」  「南京錠が壊れているのも一緒だ」  カオルが箱の前面を指差した。  「ですね。簡単に開きそう」  すみ子は箱を引き寄せた。  「では、開けます」  すみ子の心臓の鼓動が高くなる。  「えいっ」  蓋が開くと、二人の視線が同時に中のものに釘付けになった。  白い細長いものが、そこに横たわっている。  「ご神札ですね」  すみ子がそれを持ち上げる。  「裏に、何か書いてありますよ」  言いながらカオルに手渡す。    「…籠ノ中ノ鳥」   「…夜明ノ晩」  「…鳳凰ト亀スベル」  「…無限ノ宝ココニアリ」  「…彼岸ノ時」  「…明治四十年 武内文之介」  一行ずつ読み合い、二人は顔を見合わせた。  「武内文之介って、美結のご先祖ですよね。高雄天神の神職だった方」  すみ子が、顎に人差し指を当てた。  「高雄天神に、不死の種を残された方だ」  カオルの眼に一瞬、光が宿った。  「不死の種から、十年後。今度は無限の宝か。これは面白い」  「何だか、後世の私達を試しているみたいですね」  「受けて立ちましょう。今日は秋分の日。特に用件もなく、ヒマを持て余していたところです」  カオルは、満面に笑みを浮かべた。  
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加