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(一)
薄い四角形の黒い物体が、闇を舞った。
その表面で僅かに赤い光が揺れ、黒い物体に吸い込まれるように消える。
「何だろう…」
中山すみ子は、ベッドから身を起こした。
ピンク地に花の絵柄があしらわれたパジャマに、すらりとした身体を包んでいる。
仄かに赤い影が差している障子を開け、戸外に眼を向けた。
「大変。火事だわ! ウチの境内!」
すみ子の視界に、黒い燃えかすが数多、宙を舞っているのが映る。
その先で、寺の境内の何かが火を噴いていた。
寺は繁華街から離れた街外れにある。辺りは、光が届かない漆黒の闇。すみ子の居場所からでは燃えている場所が特定できない。
「まずは、現場を確かめないと」
すみ子は、手探りで部屋の灯りを点けると、臙脂色のカーディガンを羽織った。
戸棚にあった懐中電灯を持ち、部屋を駆け出す。
すみ子の部屋は二階。
降りる階段で転びそうな細い身体を手すりで支えながら、玄関で白いサンダルを引っかけ、戸外へ出る。
懐中電灯で寺の石畳の参道を照らしながら進む。
寺の境内には、すみ子が暮らす庫裏の他、本堂、薬師堂、五重塔、鐘楼などの建物が点在する。
頭上に黒い燃えかすが次々と飛んで来るのを見ながら、すみ子は恐る恐る歩を進めた。
「山門だ! 山門が燃えてるわ!」
山門とは、寺院の表門の総称である。
すみ子の住む高悠寺は、高雄市内で最古の寺院。山門は「二重門」と称される形式の、二階建てのものだ。
近くで見ると見上げる程の高さがあり、一階と二階にそれぞれ、瓦葺きの屋根が付いている。老朽化している上、木造のため火の回りが早い。
「自分で消火するにはもう火が回り過ぎてる。一一九番しなくちゃ!」
すみ子は、カーディガンのポケットを探った。
「いけない。部屋にスマホ、置いてきちゃった」
もといた庫裏のほうを振り返る。
が、一歩踏み出しかけて止まった。
再び、山門の方に向き直る。
山門を包む炎は、すでに二階の外壁全体を囲む勢いで、燃え上がっている。
そこから立ち上る黒煙は、天に浮かぶ月を隠す程に、高く広がっていた。
「駄目だわ…消防車を待っていたんじゃ間に合わない」
すみ子の脳裏に、五年前に亡くなった父親の言葉が蘇った。
「あの山門の二階には、この寺で一番大事なものが隠されている」
父は末期の肝臓癌だった。庫裏の寝所で横たわったまま、消え入りそうな声で最期の言葉を語った。
「この寺の先祖代々に伝えられている壺でな。山門の二階の床の隠し穴に収められている」
「何が入っているの?」
「わからん。代々の言い伝えで、開けてはならぬとされていてな」
「開けてみなければ、本当に大事なものかわからないでしょう」
「そうとは限らぬ。皇室に伝わる三種の神器も、箱に収められていて天皇ですら開けてみてはならないとされているという。極めて大事なるものなるがゆえに、見てはいかぬのだと私は思っている」
(このまま放っておけば、山門全体に火が回って、大事な壺も焼けてしまう。壺自体は燃え残っても、中に入っているものが木や紙だったら炭化しちゃうわ)
すみ子は、燃え上がる山門を前に、葛藤した。
(消防車を呼んで火を消して貰うとすると、水圧で壺が割れて、中身は水浸し。大事なものが台無しになってしまいかねない)
すみ子は、眼を閉じた。
(どうしよう…。大事な壺を無傷で救い出すには、今すぐ私が火の中に飛び込むしかないんだわ)
すみ子は顎に手をやった。
(火の中に飛び込むとなると命がけ。何が入ってるかわからないもののために、命をかけられるの?)
すみ子は、遠く離れて行った家族達の顔を思い浮かべる。
母親は、すみ子が小学生の時に交通事故で亡くなった。
父親も亡くしたことで、ただ一人残った弟は、父の跡を継ぐため通っていた高校を中退。僧侶になる修行のため、真言宗の総本山、高野山に籠もっている。
(そうだ…。亡くなった父母のため。修行中の弟のため。私はこの寺の大事なものを守らないといけないんだ)
すみ子は眼を開けた。
(命に代えても!)
すみ子は、山門に向け駆け出した。
山門の眼の前に達すると、火の粉が頭に降り注いだ。
「熱っ」
すみ子は、着ていたカーディガンを脱ぎ、頭から被った。
持っていた白いハンカチで口を覆う。
「お仁王様は、まだ無事だわ」
山門に安直されている仁王像は、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体である。
阿形の方の像の後ろに、門の内部に通じる扉があった。
すみ子は、ハンカチを口に咥えると、扉に手を伸ばし、前に引いた。
扉が観音開きに開くと、すみ子は懐中電灯で内部を照らした。
煙はまだ充満するには至っておらず、前方に階段が見える。
(大丈夫! まだ入れる)
すみ子は、上へ登る階段に、取り付いた。
右手に持った懐中電灯で上を照らしながら、一段ずつ確かめつつ進む。
(すごい。火の海)
すみ子は二階に辿り着くと、辺りを懐中電灯で照らし、見回した。
すでに四方の壁に火が回り、天井から火の粉が降り注いで来る。
(まだ…まだ行けるわ。不動明王様、どうかご加護を!)
すみ子は、懸命に這いつくばりながら、前進する。
(よく、見えないけど…この辺の筈)
すみ子が、二階の中央付近の床に触れた時。
火に覆われていた天井が、大きく軋んだ。
「きゃアッ!」
燃え盛る天井の破片が、すみ子の頭上に崩れ落ちた。
瓦礫と化した破片がすみ子を呑み込み、床を突き破る。
すみ子は、意識を失った。
気がつくとすみ子は、白い部屋にいた。
「やだ…。私、死んでしまったの?」
天井と壁の白色を見回し、すみ子は呟いた。
「気がつかれましたか」
隣室のドアが開き、白髪の老人が入って来た。
すみ子はベッドの上で半身を起こした。
「宿村先生?」
老人は、満面に笑みを浮かべた。
「高雄天神のご令嬢の結婚式以来ですな。今日は私どもの病院が休日当番医でしてな。救急車で運ばれて来たのが中山さんだったので、大層驚きましたよ」
宿村は額に上げていた老眼鏡を眼の位置に下げ、持っていた紙に視線を落とした。
「CT検査の結果、脳にも内蔵にも異常なし。骨折もなく、かすり傷が数ヶ所見られるだけです。転落の際のショックで、意識を失っただけですな。すぐに退院していただいて結構です」
「えっ…。どうしてですか? 私、お寺の火事現場から真っ逆様に落ちた筈なのに、かすり傷だけなんて」
宿村はまた、楽しそうに笑った。
「そのあたりの事情は、待合室で待ってらっしゃる方にお聞きになられてはいかがでしょう」
「待合室に? その方が私を助けてくださったんですか」
すみ子はベッドを降り、スリッパを履いた。
病室を出ですぐの待合室に向かう。
濃紺の作務衣を着た若い男がソファーに座り、本を読んでいる。
横に置いてある黒いトートバックに、すみ子は見覚えがあった。
「わっ」
すみ子は叫び、顔を覆った。
「井中先生! 井中先生じゃありませんか」
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