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山科玲奈は腕時計を見てため息をついた。七時四十分。五分前に時計を確認してからまだ五分しか経っていなかった。風紀委員の役目とはいえ、居残り組みの反省文作成に付き合わされるのはうんざりだった。
すでに部活の生徒も下校し、玲奈たちしか残っていないはずだった。
ホコリっぽく窓もない地下というのも気が滅入る原因だ。もともと倉庫だった場所に机を八台持ち込んで校則違反者の反省部屋にしたのだ。机は二台ずつ、後方へ四列配置されていた。教室の半分ほどの大きさの小部屋。通称、『お仕置き部屋』。校則違反常習者からは『玲奈のお仕置き部屋』と冠付きで呼ばれている部屋だった。
それに今日はなぜか肌寒かった。普段から薄暗い蛍光灯もいつにも増して弱弱しく感じられた。さらに蛍光灯はジーッという音を立て不規則に点滅し、落ち着かない気持ちに拍車をかけた。
「あんたたち、まだ書き終わらないの?」
最後列に座る玲奈が声を掛けた。
「もうすぐだよ。早く帰りたいのは俺たちも同じ」
「納得してないから筆が進まないだけさ」
最前列に並んで座っている早川兄弟が前を向いたまま答えた。
今日のお仕置き部屋行きは三名。全員、玲奈と同じ高校二年。双子の早川兄はヘアワックス禁止違反、早川弟は眉毛剃り違反。玲奈のすぐ前に座っている同じクラスの岩淵智樹は遅刻だった。
智樹が身体をねじって後ろを振り返る。
「一緒に帰ろう。送っていくよ」
「いいから、さっさと書け」
玲奈はほっそりとした手を振って智樹を前に向かせた。
智樹が玲奈のことを好きなのは分かっていた。玲奈に近づきたいために些細な校則違反を繰り返す馬鹿なやつだった。玲奈も智樹が嫌いなわけではなかった。背の高いイケメンから好意を持たれるのは気分が良かったし、クラスの女子の羨望の視線も気持ちよかった。
だが校内恋愛は禁止なのだ。生まれつきの風紀委員たる玲奈が自ら違反するわけにはいかなかった。左腕の『風紀』の腕章は伊達ではないのだ。
「出来たよ」
智樹が振り返って、反省文を玲奈の机の上に置く。
「あとは早川兄弟だけね」
「だいたい髪の毛を整えることのどこが悪いか全くわからない」
今更ながらの不平を早川兄がつぶやく。
ただの独り言だと玲奈は無視していたが、代りに智樹が応えた。
「くだらない理不尽な校則だけど仕方がないのさ。高校って場所は納得できないルールとどう折り合いをつけるかを身に付ける場所なのさ。これも社会にでるための準備だよ」
いつも玲奈が智樹にいい聞かせている言葉だった。風紀委員として、そして異性の友人として。
「違反常習のお前が偉そうにいうなよ」
「よしできたぞ。帰ろ、帰ろ」
早川兄弟が立ち上がり、玲奈の席まで反省文を持ってきた。玲奈はそれを受取り智樹の反省文に重ねた。
「これに懲りて違反はもう止めてね」
これが解散の合図だった。玲奈と智樹も立ち上がった。机の列の横を通り、前方の出入り口に向かいかけたが、突然、立ち止まった早川兄弟にぶつかりかけた。
「さっさと、行ってくれよ」
玲奈の隣で智樹が催促する。
玲奈は兄弟が足を止めた理由が何かと、左に踏み出し肩越しに前をみた。
三メートル前にそれはいた。蛍光灯の点滅のタイミングに合わせて出現したように思えた。
「なに、あれ?」
玲奈がつぶやく。
「おまえにも見えるんだな」
早川兄弟が口を揃える。
「なにが?」
智樹が、兄弟の右側から前方を覗き込み。ヒッと音を立てて息を飲んだ。
怪人がいた。シルクハットに銀色の仮面をつけている。左右の目は下弦の三日月形の黒い穴、たれ目だ。鼻はなく、口は上弦の三日月の黒い穴だ。嘲笑っている表情に見える。
そして首から下は床まで届く長い赤いマントを羽織っていた。
「赤マントか、青マントか、どちらか選べ」
口角が上がった三日月の口穴から声が聞こえてきた。
早川兄弟のすぐ左後ろに玲奈、右後ろに智樹が立ち、呆然としていた。
「怪人、赤マントだ」
玲奈が思っていたことを智樹がまた口にした。都市伝説に出てくる殺人者だった。突然、学校に現れ生徒を惨殺する学校の怪談だ。
早川兄は視線を赤マントに残したまま智樹の方を振り返った。
「なんだ、それ?」
「見ろ、背中に鎌を背負っている」
玲奈も智樹の指摘で初めて気がついた。死神が持っているイメージの巨大な鎌が赤マントの背中にあった。マントにどのように括りつけられているのか分からなかったが、必要な時が来れば、すぐに両手に持ち替えて鎌を振うはずだ。
「赤マントか、青マントか、どちらか選べ」
「答えちゃダメよ」
赤マントの問いかけに玲奈が慌てて言った。
「赤マントって答えると、鎌で切り裂かれて全身血まみれにされて殺されるの」
その後は智樹が引き取った。
「そして青マントって答えると一滴残らず血を抜かれて真っ青にされて殺されるんだ」
「げっ、どっちにしても死ぬんじゃん」
「誰かがふざけてるんじゃないか」
「おい、仮面を外して顔を見せろ」
早川兄弟が緊張を打破しようと大声を出した。
「こんなイタズラ、放っておいて帰ろうぜ」
早川兄が出口に向かって一歩踏み出した。
バサッと音がして赤いマントが翻った。四人の視界が赤色に覆われた。
マントが元に戻った時には、赤マントは同じ場所で鎌を構えてたっていた。マントの隙間から赤い手袋をした手が出て鎌の長い柄を掴んでいる。右手は刃に近い上部を持ち、左手は中央よりやや下側を握っていた。長い柄は微妙なカーブを描いていた。そのカーブが刈り取る時にスムーズな動きをもたらすのだろう。
無言の圧力を感じて、早川兄は元の位置に後退った。
赤マントとの距離は約三メートル。一か所しかない出口のすぐそばにいる。鎌から逃れずに出て行けるはずはなかった。
玲奈も他の三人も、もう誰かの悪戯だとは思っていなかった。一か八かイタズラに命を賭け、走りだそうとするものはいなかった。
「赤マントか、青マントか、どちらか選べ」
赤マントはゆっくりと繰り返しながら、鎌を持ち上げた。
急き立てられているのが分かった。このまま答えないでいると、あの鎌が振るわれるのだ。一振りで全員の首が胴体から離れてしまう。
「緑はどうだ?」
小声で早川兄がつぶやいた。
「緑は平和の象徴だよな。グリーン、イコール、平和だよ」
弟が同意する。
「よし、俺が答える」
一瞬の間があり、それを全員の承諾と解釈した早川兄が叫んだ。
「緑マントだ!」
「そんなマントはない」
玲奈は赤マントの声に寂しさが含まれているように感じた。そして、これからの惨劇に身構えた。
早川兄が立ったまま震えだした。すぐに激しい痙攣になり足元に崩れ落ちた。床をのたうつように身体をくねらせていた。
学生服の間から見える手や足首、顔は緑に覆われていた。苔だった。全身を苔に覆われているのだ。
「兄貴!」
弟が駆け寄るが、どうしてよいか分からず、ただそばにしゃがみ呼びかけることしかできなかった。
兄は苦しみでもがきながらも、やっとの思いで弟に顔を向けた。
髪の毛もすべて緑の苔に取って代わられ、目も苔に覆われ瞳がどこにあるかも分からなかった。何か言おうと口を開けたが、舌や喉の奥にも緑の苔がびっしりと生えていた。
兄が何かいったが、玲奈にははっきりと聞き取れなかった。「頑張れ」といったように思えた。
弟がうなずくと同時に、兄の生命が失われるのが同時だった。
兄の全身が赤黒いヘドロのような液体に変わったのだ。ひしゃげた学生服の襟や袖から赤い血にまみれた苔の破片が流れ出し床に染みを作っていた。兄は学生服だけを残して溶けていった。
弟が立ち上がった。
「ちくしょう! 黄色だ。黄色マントだ!」
「待って、ダメよ」
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