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いつもなら、リョウは午後七時過ぎに帰宅する。
古いアパートの三○七号室の前で、私は腕時計に目を遣った。
六時二十四分。
まだ半時間以上も、部屋の主は帰ってこない。
ドアの前で待ち呆けるには、少し長い。
こういう時にこそ、合い鍵が役に立つ。
オートロックの最新式マンションにしなかったのは、単に貯金に回す額を増やしたかったからだ。
防犯面では不安が残るものの、私にとっては利点もあった。サプライズを演出するには、こっそり入れなければ困る。
今さら気兼ねする仲でもなく、鍵を開けた私はドアの内側へと進み、中からまたツマミを捻ってロックした。
殺風景な２ＬＤＫは、いつも通り住民のズボラさで手狭に感じる。
床に散らばったパジャマに下着、シンクに詰まれた皿と鍋。今朝は特に慌てたのか、テレビの前にもパン屑だらけの皿が放置してあった。
いつもなら、どれだけ乱雑でも勝手に手を出したりしないが、今日は特別な日だ。
彼が戻るまでに、部屋をそれなりに片付けようと、私は手荷物をテーブルに置いた。
まずは朝食に使ったと思しき食器類を運び、溜まった洗い物を手早く済ませる。
パジャマは畳んでベッドの上へ。Ｔシャツや下着は洗濯カゴに放り込み、テーブルに雑巾を掛けた。
彼の部屋に花瓶は無いが、洒落た小ぶりのワインボトルがあったはずだと、流しの下を探す。
見つけた瓶に半分ほど水を注ぎ、テーブルの真ん中に据えた。
いつも持ち歩く黒いスポーツバッグの他に、私が用意してきた物は二つ。
一つは、彼の好きなガーベラの切り花。
一輪挿しにすると少々寂しく感じたものの、青いボトルに赤い花がよく似合う。
もう一つは小さなホールケーキだ。
駅前の人気店で予約注文したケーキは、チョコレートをふんだん使った本場オーストリア流のザッハトルテ、らしい。
甘味に興味が無い私には、豚に真珠の高級品ではあるが、チョコ好きのリョウなら気に入ってくれるだろう。
包装を解き、上蓋を開けると、濃厚なカカオの匂いが漂う。
シンプルな円形のケーキの上部には、金箔粉が飾りに散らされ、ホワイトチョコ製のメッセージプレートが挿さっていた。
凝った字体で一言、“HAPPY BIRTHDAY！”とだけある。
どうせなら、私の祝福に驚いてほしい。泡を吹くような派手な仕掛けではなく、ちょっと驚き、そして笑顔に変わるささやかな演出を。
そのために、わざと彼の帰宅に先んじたのだった。
すぐに気づいて欲しいので、ケーキはプレートを玄関に向けて、目立つように脇にキャンドルを点す。
赤いキャンドルは、店がサービスで二本くれた。燭台には、持ってきたアロマ用の小皿を使う。
キッチンから果物ナイフを取ってきて、ケーキの脇に置いた。彼が見て喜んでくれたら、すぐに切り分けて、二人で食べよう。
揺れる小さな二つの炎。私が恋人に求める条件、これも二つある。
どうしても譲れない、二つのこだわり。とは言え、そんなに難しいことを望んでいるのではない。
一つは、私と同じく、サプライズが好きなこと。
退屈な日常に、ちょっとした変化をつける。その努力は欠かさないで欲しいし、自分も面倒だとは思ったりしない。
少しくらい行動が荒っぽかったり、だらしなかったりしても、それくらいは自分がサポートすればいいことだ。
時間にルーズでも、よほどデタラメでない限り受け入れられる。
実際、既に七時十五分を過ぎて、まだ帰ってくる気配が無い。
途中の本屋で雑誌を立ち読みし始めたか、コンビニで余計な買い物でもしているのか。
この半年、彼を見てきて、大体の行動パターンには予測がつく。チョコ好きの嗜好も、そうやって自然と知り得たものだ。
まだ時間の余裕があるならば、もう少し演出を強化しようと、私は部屋の照明を落とした。
二つの蝋燭が、暖かくケーキを明らめる。
用意したクラッカーも二つ。彼が満面の笑顔になったら、青いクラッカーを。赤い方は――使わなければ、しまって置けばいい。
持ち込んだ手提げ袋や、花屋の包み紙をゴミ袋にまとめて自分の痕跡を綺麗に掃除し、自身はバスルームへと入った。
扉は半開きにして、狭い脱衣所で彼が現れるまでの時間を立って待つ。
あと何分、この態勢を保たなければならないか知らないが、サプライズのためなら我慢もできた。
バスルームの扉はリビングに面して、窓側を向いており、玄関の様子は窺えない。
見えずとも、帰宅は充分察せられるという期待通り、程なくしてガチャガチャと鍵を回す音が響いた。
わずかに軋みを上げてドアが開き、中へと入ってくる彼の足音が耳に届く。
ドサリと、何かが床に落ちた。リョウがバッグを下ろしたのだろう。
彼は摺り足で進み出したらしく、きぬ擦れが微かなノイズとなって聞こえるだけだ。
リビングの入り口、その床に直接置かれたケーキの前に、彼は膝を突いた。
「なんだ……これ」
照明を切ったのは、失敗だったかもしれない。
リョウは電気を点けなかったため、ケーキのメッセージがよく読み取れていないようである。
あまり驚かさないように、そっとバスルームの扉を開けて、彼の背後に近づいた。
それでも人の動きは彼の注意を引き、リョウは振り返って目を見開く。
努めて穏やかな声で、私は祝福した。
「ハッピーバースデー。驚いてくれた？」
彼の口が、大量の酸素を取り込もうと大きく開く。
いや、大量の何かを、吐き出したいのか。
「だ、誰？」
「サプライズよ。リョウの誕生日を祝いに来たの」
跪いていなければ、彼はフラついて倒れてしまったであろう。男の子のくせに、なんて繊細なのかしら。そんなところが、好きなんだけれども。
全身が細かく震え、キャンドルに照らさた顔は、白蝋の如く血の気が引いていた。
「違う。お、俺じゃない。俺の誕生日は先々月、人違いだ」
「誕生日が違うのは、我慢する。これから修正すればいいよ。チョコだって妥協できる、好物でしょ？」
私は優しく微笑んだ。
「リョウでもない。俺は涼一、何かの間違いだ！」
「……喜んでくれないの？」
「何を？ 近寄るなって。やめろ！」
私の望みは二つ。
サプライズを楽しむ男性であること。
リョウという名前であること。
「見て、ほら！」
私が指差すと、彼は今一度ケーキへ視線を落とす。
その隙に彼の横をすり抜けた私は、床にしゃがみ込んだ。
「ハッピーバースデイ、リョウ」
「どうかしてる、け、警察を呼ぶぞ！」
ダメ押しのようにお祝いを否定され、私は息を止めて、赤いクラッカーへ手を伸ばした。
小麦粉を詰めたクラッカーが、彼の顔の前で炸裂する。別に危険な粉ではないが、いきなりのことに、彼はエホエホと噎せながら、目を閉じた。
手を扇いで白煙を払おうとする彼、その首に向かって、果物ナイフを突き出す。
三度目ともなると、この作業にも慣れてしまった。頸動脈を外したりはしない。
あと何回、リョウを探せるのだろう。
たった二つの条件に合う相手を見つけるのが、これほどまでに難しいとは。
私なりの婚活を続けるには、後始末も重要だ。
しばらく目をつむり、再び瞼を開けた私は、ボトルからガーベラを引き抜いた。
花を握り散らし、リョウだった物の上に振りかけ、キャンドルを吹き消す。
赤い飛沫が散るフロアに、赤い花弁が負けずに咲き乱れた。そう、闇に紛れようが、私には愛らしい花がハッキリと見える。
自分のスポーツバッグを引き寄せた私は、中から使い込まれたノコギリを取り出した。
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