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楼主の部屋を出て、しばらく足早に歩いていたツユクサだったが突然足を止めるとその場にしゃがみこんだ。
辺りを見回し、誰もいない事を確認するとほっと息を吐く。
横座りになると、着物の裾から覗く足を軽くさすった。
「……情けないな、しっかりしろよ」
苛々としながら小さく呟く。
その足は驚くほどガクガクと震えていた。
本当は楼主の部屋を訪れるずっと前から緊張していた。
あまりの緊張に前日から食事も水も殆ど喉を通らなかったくらいだ。
楼主の前でも気丈に振る舞ってみせていたが、内心では心臓が破裂しそうそうだったし、頭は真っ白状態だった。
あの人にバレなかっただろうか。
指先が、唇が、肩が、僅かに震えていたことが。
けれどそんな状態になってまでも、ツユクサはどうしてもこの計画を実行したかったのだ。
そうしないと、わざわざゆうずい邸の男娼からしずい邸の男娼へと転身した意味がない。
ツユクサは決して好き好んで、男に抱かれるためにしずい邸に来たわけではないのだ。
ツユクサは元々ゆうずい邸の男娼だった。
この淫花廓は二つの敷地に分けられ、それぞれに全く逆の役割をする男娼が存在する。
客に抱かれ、それを生業とするのがしずい邸の男娼。
それとは逆に客を抱く事を生業とするのがゆうずい邸の男娼だ。
ゆうずい邸の男娼は基本どんな客でも抱く。
男だろうが女だろうが若かろうが歳だろうが関係ない。
ツユクサは、二ヶ月前までそこで「露草」として客を抱いていた。
紅鳶や、漆黒、青藍に並ぶ人気男娼とまではいかないが、そこそこ指名客はついていた。
露草の強みは至ってシンプル、そつなく何でもこなす事だ。
何かが突出してるわけではないが、目立って悪いところもない。
男でも女でも選り好みせず、無難に相手ができる。
それが露草の売りだった。
これといって問題もなく過ごしていたある日。
事件が起こった。
その日露草は初めて淫花廓の外で仕事をしていた。
贔屓にしてくれているホテル経営者の上客が、新規ホテルのオープニングの為に開かれるレセプションパーティーのエスコート役として露草を指名してきたのだ。
ゆうずい邸の男娼は、外での営業も行っている。
高級廓の質を落とさない為、しっかりとしたマナーや知識は身につけなければならないがそれさえパスしてしまえば外で客と会うことも許されているのだ。
但し、男娼には皆マイクロチップが埋め込まれている為逃亡することはできない。
時折、男娼の仕事に嫌気をさしたやつが逃げようとするらしいが、すぐに居所を突き止められ連れ戻される。
しかし露草は淫花廓を逃げるつもりなんて毛頭なかった。
淫花廓は外の世界よりずっと、ずっと心地がいい。
外で暮らすくらいなら、あんな明日の命もあるかどうかわからないような生活に戻るくらいなら、死んだほうがマシだと思っていた。
だからまさか男娼になってまで命を狙われるなんて思ってもみなかったのだ。
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