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「あぁ?」
楼主の眉がピクリと上がる。
僅かに空気がピリついたのを肌で感じた。
しかし、一度口を衝いて出てしまった投げやりの言葉を止めることはできず露草は再びそれを口にしてしまう。
「死んでもよかったと、言ったんです。どうせ僕が死んだところで誰も悲しまないし困らない。僕なんて生きてるだけ無駄なんですよ」
自分でも卑屈な事を言っているとわかっていた。
怪我を負ってまで助けてくれた人を前に、お礼どころか自分を無価値だと下卑する言葉を吐くなんて不躾極まりない。
すると、楼主はいきなり露草の胸ぐらを掴んできた。
遠慮のない力任せの行為に、縫合したばかりの脇腹に引攣られるような痛みが走る。
しかも楼主自身も、怪我を負った方の手で掴んできていた。
傷口が開いてしまったのか、巻かれた白い包帯にじわじわと赤いものが滲んでいく。
ぎょっとした露草は、「何するんですか」と言いかけて口を噤んだ。
楼主の刃のような鋭い眼差しに威圧されてしまったからだ。
黒いその目は、まるで深い井戸のようだった。
深くて暗くて、底が見えない井戸。
憂いを帯びたその眼差しに思わずドキッとしてしまう。
その目はいつもの男の眼差しとは明らかに違って見えた。
「……俺の前で、二度と、くだらねぇ事を言うんじゃねぇ」
男は歯切れの悪い絞り出すような声でそう言うと、掴んでいた露草の襟元を離す。
解放された露草は乱れた衣服を直すのも忘れて、呆然と楼主を見つめた。
意外だった。
もっと大声で怒鳴られると思っていたからだ。
口の悪いこの男のことだから、もっと罵倒して散々罵ってくるものだと思っていたのに今の楼主の声色からは怒気は殆ど感じられなかった。
どうして…
困惑する露草を他所に、楼主は小さく舌打ちをしながら血の滲む右手を振ると、その手を無造作にコートのポケットに突っ込む。
「余計なことを考えるな。てめぇはその傷を治すことだけ考えてればいい」
男はいつもの威圧的な口調に戻ると、露草の返事も聞かずに出口へと向かう。
そうして扉の前まで来ると、ちらりと視線を流してきた。
「それと…しっかり食え。食うのも治療のうちの一つだ。とっとと治して戻ってこねぇとてめぇの年季を倍にしてやるからな」
男は淡々と告げると、病室を出て行った。
男の靴音が次第に遠ざかるのを聞きながら、露草はわけのわからない感情に襲われていた。
「なんだよ…何しにきたんだよ」
悪態を吐きながらもさっき見た男の暗い双眸を思い出す。
あんな目…初めて見た。
いつも冷徹で無表情で、決して感情を表に出さない楼主の隠された一面を知ってしまったような、そんな気がしてならない。
しかもその眼差しは、いつの間にか露草の脳裏にこびりついて離れなくなっていた。
「何なんだよ、もう…」
考えれば考えるほど、わけがわからなくなってきて露草は頭を振る。
すると突然頭床台に置いてあった袋が、カサっと音を立てた。
それは楼主が持ってきたビニール袋だった。
何かが押し込まれてパンパンに膨れ上がった袋を引き寄せると、恐る恐る中を覗く。
「何これ…」
袋の中に入っていたのはプリンだった。
とろりとした食感から固めを謳ったプリン、定番のプリンから、変わった味のプリン、どこかのスイーツショップで買ってきたような高級そうなものまで、軽く10個は超えている。
なぜ楼主はこんなに大量のプリンを買ってきたのだろうか。
困惑しながら袋の中を見つめていた露草はふと思い出す。
二日前やってきた男衆に好物を訊かれていた事を。
特にこれといって好きなものはないのだが、淫花廓では嗜好品として滅多に食べれないものを思い浮かべて適当に「プリン」と答えてしまったのだ。
驚いた。
そんな露草の適当な願いを、あの冷徹が売りのような男はきちんと聞き入れてくれていたのだ。
しかもこんなに大量に…
「バカじゃないの。こんなに…たくさん食べきれるわけないだろ…」
露草はぼそりと溢すと袋の中から一つ取り出す。
蓋を開け小さなスプーンでプリンを掬い、それをそっと口に運んだ。
とろりした食感の後に、ふわりと香るバニラ卵のコク。
濃厚な甘さが口一杯に広がって、梅雨は思わず呟いていた。
「美味しい…」と。
二口、三口と口に運びながら、露草はいつの間にかボロボロと泣いていた。
別に泣くほど嬉しいわけでもないのだけれど、なぜだか涙が止まらなかった。
もしもあのまま死んでいたら、こうやってプリンを食べる事も、それを美味しいと感じる事もなかっただろう。
それに、こうして小さいながらも願いが叶う喜びを知る事もなかったのだ。
その日から露草はもう死にたいとは思わなくなった。
決して露草の人生が明るいものに変わったわけでもないし、楽しい毎日になったわけでもない。
けれど、あの男の持って来てくれたプリンがとても美味しかったのと、あの憂いのある眼差しが頭に焼きついて離れなくなったから…
露草はもう少しこの世界で、あの楼主という男のことを知ってみたくなったのだ。
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