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傷も癒え、退院した露草は通常通りの生活に戻った。
他の男娼には露草がパーティーで刺された事など一切告げられていなかった。
おかげで一ヶ月ほど留守にしていたにもかかわらず、特に誰も露草に干渉してこなかった。
そもそも馴れ合う事が苦手な露草には心配をしてくれるような親しい相手など一人もいなかったのだが。
唯一事情を聞かされている紅鳶が、時折身体の様子を訊ねてきてはくれたが、それ以上の会話は特になく日々は業務は淡々とこなす日々。
まるで刺された事などなかったかのように。
変わった事といえば、例の客が来なくなった事くらいだった。
楼主と彼との間でどんな取引が行われたのか露草には全くわからないが、客の男のここへの出入り禁止以外に全くペナルティがなかったわけではないだろう。
楼主…
あの男の存在を思い出すたびに、あの日の事が頭を過る。
一瞬ではあったが、あれが冷徹と名高い男の常の表情ではなかったことは確かだ。
もう一度見て見たい。
露草は密かにそんな事を思うようになっていた。
確かめて何をするというわけではないけれど、なぜかあの表情が気になって仕方がない。
こんな事を他人に思うのは久しぶりだった。
人に、誰かに興味を持つ事自体がとても久しぶりだった。
廓に入る前散々な目に遭ってから、他人への関心が極端に減っていたせいだろう。
しかし、男とは滅多に会う事ができない。
当然だ。
彼は楼主、多忙だ。
時折姿を見せる廊下で話しかけようとしても、傍には大概誰かがいるし、目を合わせることさえできない。
何より男の放つ近寄り難いあのオーラ。
まるで何もかもを拒むようなあのオーラには中々太刀打ちできず…
話しかけるなんて到底難無理だった。
しかしそんな日々はますます露草を悶々とさせ、遂には寝ても覚めても楼主の事ばかりを考えるようになってしまっていた。
客を相手にしている時も、食事をしている時も、横になっている時も。
頭の中はどんどん楼主であふれていく。
そして露草がその感情の正体に気づくのは存外早かった。
恋。
これは恋だ。
久しく感じていなかったがこれは恋で間違いないと露草は思った。
楼主に恋なんてどうかしてると思う。
他にも男は沢山いる。
特にゆうずい邸には、紅鳶をはじめ、漆黒や青藍など粒揃いの男が揃っているというのに。
あの楼主という男は無慈悲で冷徹で冷酷で、男娼を商品だと言い張り、損得勘定で動くような打算的人間だ。
紳士さのカケラも情もないあんな冷血な男のどこがいいのかと皆思うだろう。
しかし、露草はどうしても忘れる事ができないのだ。
男があの日言った言葉と、表情と、大量のプリンが。
きっと男には他の人間には決して見せない本当の姿を隠して生きているに違いない。
露草はそれが知りたいのだ。
もっと誰も知らないあの男の本性を知ってみたい。
あの時見せた彼の心の綻びをもっと見つけて知ってみたいのだ。
一度それを認識してしまうと、人の欲求はどんどん深くなっていくもので。
楼主を知りたいという気持ちは、次第に肉体への欲求にも繋がり始める。
いつしか露草はゆうずい邸在籍である身にもかかわらず、抱かれたいと思いはじめるようになっていた。
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