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3.
俺を拾ってくれたマスターは、こんな猥雑な店のオーナーであることが不思議なくらい、穏やかな目をしたどこか気品を感じさせる人だ。何年か前に知人からこの店を受け継いだと聞くが、それ以上のことは何も知らない。
彼はあまりカウンターの中にはいない。サロンでの接客を主にしている。いつだったか、サロンのテーブルに酒を運んだ時、カーテン越しにとても冷たい目をしたマスターの横顔を垣間見たことがある。
いつも優しいマスターの、初めて見る冷徹な表情に俺は少なからず動揺したが、でもそれはすぐに忘れた。そんなこと、関係ない。『優しい顔をしているけど、あの人は実は怖い人なんだよ』と常連の娼婦に囁かれたこともある。だがマスターが例え悪魔だったとしてそれがどうだと言うのだ。今、俺の居場所はここしかないのだから。
「ひとりで大変じゃない?」
兄のアキラが俺を気遣うようにそう言った。だが目は俺を通り越し、店内を忙しく物色している。今夜の相手を探しているのだ。彼は客と目が合うたび、媚びるように微笑みかけている。
「……ひとりじゃないから」
「ああ、マスターは除いてさ、ウェイター、君、ひとりじゃん。ウェイターって言ってもバーテンみたいにお酒も作ってるし」
「……ここにくるお客はムズカシイ注文はしないからね。奥のお客はマスターが見てくれているし、案外、楽なもんだよ」
「そうなのお? でもさ、あの人、どうしたの?」
「あの人って……?」
俺は思わず、とぼける。あまりしたくない話題だった。胸ポケットに折りたたんでしまいこんでいる一万円札に思わず目が行く。
「前にもうひとり、いたでしょ。クールな感じのいい男のバーテン。僕、結構タイプだったんだよねー。あんたなら無料でさせてあげるって何度も言ったんだけど相手にされなかったなー。優しくはしてくれるんだけど、一線は越えてくれないって感じで。僕、イケてないのかなあ」
「……男に興味なかっただけじゃないのかな」
「そうかなあ。こっち側の人だと思ったんだけど。彼がナオミチくんを見る目付きなんか見てるとさ」
「はあ? 何のこと?」
「やだねー。鈍いんだから。君って絶対、愛されタイプの人間だよ。な―んにもしないでそこにいるだけで何だかみんなに好かれて守られる奴っているじゃん。君はそういう人だよ。いいなあ」
「あの……俺、そういうタイプじゃないと思うけど」
「やっぱり、鈍ーい」
俺が不毛な会話に疲れて黙っているとまたアキラが言った。
「で、彼、名前なんだっけ?」
「……ええっと、林だか、森だか、そんな名前だったと思うけど」
「森、だよ」
冷たい声音で弟のマシロが言った。あ、ごめんと条件反射で思わず謝りはしたが、すぐその後で嫌な気分になる。なんで俺がお前に謝らなきゃいけないんだ。
このマシロという奴は初めて会った時から、何故か俺に反感を持っているようだ。愛想の良い兄に合わせて調子のいいことを言い、常に笑顔でいるが、時折見せる冷たい目付きや冗談に見せかけたきつい物言いが俺を容赦なく刺した。そのトゲに気付かない振りをして俺はアキラの方に向き直る。
「辞めたよ。事情はよく知らないけど」
「辞めた?」
またマシロが割って入ってきた。しかたなく視線を彼に向ける。
「あれは辞めたんじゃないでしょ。失踪したって聞いたよ。この店で何かあったんじゃないかって噂だけど?」
「……知らない」
俺はそう答えるしかない。本当に知らないのだ。その森というバーテンはまだ若く、背の高い男で、あまり笑わない人だった。ここで二年ほどバーテンとして働いていたらしい。そして俺がここに来て、その一ヶ月後に突然いなくなった。それはそう、マシロの言う通り、失踪だ。誰も彼がどこに行ったか知らない。
突然いなくなった彼を、マスターは捜そうとはしなかった。俺も何も言わなかった。もうこの街にはいないのかもしれない。
「ふうん、知らないんだ。一緒に働いていたのに知らないんだ? なんかさ、薄情だね」
「およしよ、マシロ」
嫌味な言い方をする弟にアキラがたしなめるように言った。
「ナオミチくんにそんなこと言ってもしょうがないでしょ」
「だって、森さんとこの子、何か……」
「行くよ、お仕事」
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