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11.
と言いながら、マスターは蔑むようにくすりと笑った。これが男の怒りに火を付けた。何かひどい言葉を吐きながら、男は刃が三日月型の不気味なナイフを腰の辺りから引き抜くとマスター目掛けて走った。俺は、はっと息を呑んだが、その決着はものの数秒でついていた。
ナイフの刃がマスターに届く前に、男はナイフを取り落し、苦痛に呻いたのだ。
何が起こったのか俺には見えなかったけれど、男が肩を押さえてうめいている様子から、寸前でマスターにナイフを持つ手をひねりあげられたようだ。苦痛にゆがむ男の表情からもしかしたら脱臼でもしているのかもしれない。
そんな男を見下ろして、マスターは涼しい顔で言った。
「ひとつ言っておきます。この私の手に触れたすべてのものは私のものです。ここにいるナオミチくんも然り。人のものに手を出すのは無粋ですよ」
「……あんた、誰だ」
「ですから、サカキと……」
「違う。そうじゃない……私は知っているぞ、あんたには……・違う名前が」
「そんな名前はとうに忘れました」
きっぱりと切り返されて、男はぐっと押し黙った。
「私は『ガーネット』という店のマスターです。それ以上でもそれ以下でもありません」
マスターは軽く微笑むと俺の方に向き直った。ゆっくりとした足取りで傍に来ると片膝をつく。
「お待たせしました。ナオミチくん」
こんな時だというのにのんびりとした口調と表情のマスターにふっと心が柔らかくなる。俺はつい笑ってしまった。
「あれ、どうしました?」
「……似合いません」
俺がかすれた声を絞り出すようにそう言うと、マスターはのどかに首をかしげた。
「はい?」
「マスターが乱暴する、なんて」
「ああ」
マスターもにこりとして言った。
「たまには私もがんばりますよ、従業員のためですから」
彼はちらりとうずくまっている男に一瞥を投げ、彼が戦意喪失しているのを確認すると、そっと俺の髪をなでた。
「……怖かったでしょう。遅くなってすみません」
その言葉に張り詰めていた緊張の糸が一気に切れた。俺は恥も外聞もなく声を上げて泣き出していた。
「いい子だね。よくがんばりました。さあ、帰りましょう、ナオミチくん」
マスターは俺の汚れた顔を自分の胸に優しく押し付けた。彼のシャツからは微かにミントの香りがした。
夢を見た。
淫らな夢だった。
俺は誰かにひどく強引に口を吸われていた。柔らかい舌が俺の唇を押し上げ、侵入してくる。甘い唾液に絡まれて、俺の身体は芯からしびれた。
しかし甘美な時間はそう長くは続かなかった。未練を残さず、あっさりとその唇は俺から離れて行った。名前を呼ばれたような気がしたけれど、それは空耳だったのかもしれない。
目を覚ますと真夜中だった。しばらく記憶が混乱したが、すぐにあの男に拉致されてマスターに助け出された顛末を思い出した。腕時計の日付を見て驚いた。あれから二日経っている。一度、かすかに目覚めた記憶があるが、ほとんどぶっ続けで爆睡していたらしい。軽く頭が痛むのはそのせいだろう。
マスターは車で半分意識を失っている俺をここまで運ぶと、ベッドに寝かせつけ、自分は用事があるからここを出て行くが一人で大丈夫か? と聞いた。俺はその言葉に夢うつつで頷いたところであの夜の記憶は終わっている。
俺が今いるのは見慣れた天窓のあるあの部屋だ。
今夜の月はいびつに丸い。それが窓枠に引っかかるように浮かんでいた。しばらくぼんやりと眺めた後で、自分の身体を確かめる。ひどいめにあったが、怪我は無いに等しい。いくつかの打撲とかすり傷だけだ。ベッドの上でゆっくりと上半身を起こすと鈍い痛みが走ったが、それはすぐに収まった。
あの男はあれからどうしただろう。蛇のようなあの男がそう簡単に諦めるとは思えない。逃げたというマシロは無事でいられるのか……。
ふと、気付くと破られたはずのシャツが真新しいものに替えられていた。汚れていたはずの顔や身体もきれいになっている。すべて俺が寝ている間にマスターがしてくれたことに違いない。気恥ずかしくなってひとりで顔を赤くしていると、部屋のドア付近で何か物音がした。誰かが入って来ようとする気配を感じて俺は、はっと身構える。
「……マスター?」
返事はない。心が騒ぐ。もしかしたら。
「マシロ、だな?」
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