4.

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 ぐいとアキラに腕を引かれて、マシロは渋々立ち上がった。  ポケットから酒の代金を出すと、無造作にカウンターの上に置き、兄の背中を追う。ボックス席にいる派手な服装の男が値踏みするようにあからさまな視線を双子に送っているのが見える。彼と今夜一晩の交渉をするつもりなのだろう。この双子は大抵、ひとりの客をふたりで相手をする。それがウリになってもいるのだ。 「ナオミチ」  マシロが途中で立ち止まり、俺を振り返って言った。 「君は何でここにいるの?」  え……?  答える暇もなく、こちらを馬鹿にするように微笑むとマシロは店の奥へと歩いて行った。答える暇があったとしてもその質問に答えられはしなかっただろうが、しかしあの態度には腹が立つ。 「……何なんだ、あいつ」 「どうしましたか」  むっつりと文句をつぶやいた途端、真後ろで声がして俺は飛び上がるくらいに驚いた。振り返るまでもなく、その優しい声がマスターのものだと判る。彼は俺の横に立つと微笑んで言った。 「マシロくんとは気が合わない?」 「いえ、あの……話、聞いてました?」  店内に流れるピアノ曲。多分ジャズだと思う、その音は低くなったり高くなったりしながら俺の身体にまとわりついてくる。普段はただの『音』として聞き流しているそれらは、マスターとこうして一緒にいると、ねっとりとした粘液質の何かに変化する。そう、蜜のように甘く濃厚な何か……。多分それはマスターの持つ独特な空気にあてられて、酔わされてでもいるのだろうけど。 「聞いていないよ」  またにっこりして、マスターは店内の様子を見回して言った。 「今夜も盛況だね」 「はい……あの」 「なんですか?」 「あの、前にここにいたバーテンさんのことなんですけど」 「ああ、林……いや、森くんでしたっけ。彼が何?」 「いなくなったじゃないですか、急に」 「そうですねえ。それが?」 「どうしていなくなったんでしょう」 「ああ、そうだねえ」  彼は額に人差し指を当てて、真剣な顔で考え始めた。俺としては意味深長なマシロの様子に、ただなんとなくしてしまった質問だったから、マスターのその真剣さに慌ててしまう。そんなに考え込まなくても……。そう言いかけた時、マスターがゆっくりと口を開いた。 「ここはねえ、そういうことがよくあるんですよ。長くいてくれていた人が突然いなくなったり、ふらりと知らない人が現れてそのまま居ついてしまったり。例えば君のようにね」  俺は無言で頷く。マスターも頷き返し、話を続けた。 「だからね、ここでは人の内側には立ち入らないのがルールなんです。誰かが欠けたり、増えたりするたびにその人の心の中まで気にしていたら、正直、きりがありません。人の本当の気持ちや何かをしようとする衝動なんて、他人が理解できるよう説明することは難しいものです。だから私は森くんがいなくなる以前に彼の素性なんてまったく知りませんし、いなくなった理由を知ろうとも思いません。まして捜し出そうなんて。……知らない方が楽でいられます。気にしないことです。彼がいなくても、君の日常に支障はないのだから」 「……はい。すみませんでした、余計なことを言って」 「いいえ」  マスターはそう応じると、客の相手をするべく俺から離れて行った。マスターの気配が消えた途端、ふっと気持ちが緩む。  マスターが近くに居るだけで、妙なくらいに緊張してしまう。彼はあんなに優しく俺に接してくれるのに。微かに汗ばむ体に気がついて俺は俺自身のその反応を不思議に思う。  双子が残していったグラスと酒の代金を片付けながら密かに溜息をついた。結局、俺は何も判らないのだ。  顔を上げると、双子が例の派手な男と共に店を出て行くのが見えた。慣れ慣れしく男と腕を組んではしゃいでいるのはアキラ。ふたりから少し離れて、作り笑いを浮かべながら付いて行くのがマシロだろう。厭な笑顔だと思う。  本当は笑っていないくせに。  マシロたちを見送った後、俺は胸ポケットの中にある一万円札を指先でつまみあげた。くしゃくしゃによれて、おまけに大きな染みのついた汚い札だ。この染み。最初に見た時から思っていたことだが、これは……血ではないのか。 不安が心に押し寄せてくる。マスターは森の失踪を気にするなと言うが本当にそれで済むことだろうか。もし、彼の失踪がこの一万円札に原因があり、この染みが本当に血なのだとしたら。何か怖いことに繋がっているような気がする。  そんな微かな恐怖がはっきりとした形となって現れたのはそれから数日後のことだった。いつものように店のカウンターに立つ俺にその知らない声は唐突に語りかけてきた。
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