5.

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「……君。ナオミチくんっていったよね」  驚いて声の方に顔を向けるとカウンターに寄りかかるようにしてひとりの男が立っていた。  彼は柔和な表情をした中年男で、サラリーマン然とした地味なスーツを着ている。初めて見る顔だ。いつの間に。こんなに近くいたのに声を掛けられるまで、気が付かなかった……。  不気味に思ったが、表情には出さず、冷静に言う。 「はい。……あの、何を差し上げましょうか」 「それ、なんだけど」  男が興味を示したのは俺の胸ポケットからほんの少し顔を覗かせている一万円札だった。俺は焦ってすぐにそれを指先で奥に押し込んだ。 「な、何ですか?」 「それ、見せてくれないかな」 「……え、どうして」  俺の問いに彼はにこりと笑った。そしてゆっくりとカウンターの上に身を乗り出すと俺の耳元に口を寄せて言った。 「私が以前この辺で落とした札に似ている、と言えば見せてくれる?」 「あ、あの」  怪しい奴だ。俺は警戒して、一歩、後ろに下がる。 「これは俺の私物で」 「君って売り物?」 「は?」  本当に言っている意味が判らなくて、俺は呆然と男の顔を見返した。 「売り物って……」 「君のカラダ」  そこまで言われてようやく理解した。つまり男娼か、と聞かれているのだ。俺は慌てて首を横に振る。 「違うの? 本当に?」  今度は何度も縦に首を振る。 「そう。じゃ、これが何か判るかい?」  男は上着の懐に手を突っ込むと、何か小さなものを取り出し、俺の目の前にぶら下げた。俺は、はっと息を呑む。それはこの店の鍵、だった。赤いリボンが結び付けてあるのに見覚えがある。 「……それ、どうしてあなたが」 「君の?」 「いえ。それは……」 「それはこの店の鍵ですよ」  俺が答えるより早く、マスターの声がした。下げてきたグラスを僕に渡すと、さりげなくマスターは俺の前に出る。俺をかばうように男の方に身を寄せた。 「わざわざお届けいただきまして、ありがとうございます」  軽く頭を下げると、相手の反応を待たずにその鍵に手を伸ばす。だが、中年男はその鍵から手を離さなかった。じっとマスターを見据えながら彼は言う。 「あなたのお名前は?」 「……サカキ、と申します。よろしければ以後、お見知りおきを」 「サカキ? そんな名前でしたか?」 「はい。その名前しか持ちません」 「なるほど」  男は鍵から、いや、マスターからやっと手を離した。 「それは本当にこの店の鍵、なんですか?」 「はい、そうです」  男はしばらく疑わしそうにマスターの顔を見ていたが、やがて納得したようにひとつ頷くとあっさりカウンターを離れて店を出て行った。 「マスター、あの」 「はい、どうぞ」  マスターは俺の言葉を遮るように鍵を目の前に差し出した。 「これは君のでしょう」 「……違います!」  噛み付くように言ってしまってから、すぐに恥ずかしくなる。マスターに何をムキになっているんだ……。 「す、すみません」 「いいえ」  あくまでも優しい声で彼は言う。 「それではこの鍵は私が保管しておきましょう」 「あの」  立ち去ろうとするマスターに俺は急いで言った。 「それ、その鍵、森さんのです。彼の、この店の合鍵です」 「はい、そうですね」  マスターは肩越しに振り返ると言った。 「だから、君のでしょう」  俺は何も言えなかった。マスターもそれ以上は何も言わず、店の奥へと歩いて行った。
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