8.

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 人が壊れるのは簡単だ。  毎日同じ時間に目を覚まし、毎日同じ通学路を歩き、毎日同じ顔ぶれが揃う教室に閉じ込められる。  ねえ、知っているかい?  この閉鎖された小さな世界には何でもあるということを。大人の世界にある醜悪なすべてのものが既にここに揃っているのだ。嫉みや裏切り、陰湿ないじめ、打算や陰謀だってここにはある。大人のように世間体なんか考えなくていい分、この世界は明快に残酷だ。  そんな世界に住むある少年は、ある日、親友と思っていた連中から突然無視された。それは完璧に近い無視で、少年はすっかり透明人間にされてしまっていた。  少年が悶々とした辛い日々を一ヶ月も送った頃、突然、スイッチを切ったように親友たちは元に戻った。何もなかったように普通に話しかけ、いつものように一緒に帰途に着き、コンビニで買い食いしたりゲーセンで遊んだりした。 このぬるい空気は何なんだ。  悲痛なくらいにそう思いながらも少年は笑顔でいる。なぜ無視したのかと理由を聞いたり、彼らを責めたりしない。無視されてあんなにも、死ぬかと思うほど苦しかったのに、少年はまた笑って連中と群れている。  ある日、携帯に送られてきたメールの内容は少年の、秘密にすべきプライベートな情報だった。茶化すような文体のそれを少年はひとりで読みながら、体温が下がっていくのを感じた。そのメールはクラス全員に送られていた。  少年はそれから携帯が持てなくなった。  仲の良かった友達からある日突然、意味も判らず無視される。そんなこと珍しくない。それで心が折れてしまう方が弱いのだ。  携帯に着信する誰かの悪口や暴露を載せたメールやライン。『誰か』がいつか『自分』になる可能性は充分にある。それを怖れて携帯を持てなくなってしまった奴が負けなのだ。  人が壊れるのは簡単だ。  たいしたことじゃないと他人が思うようなことで人は無残に崩れていく。  そんなことが起こるのが当たり前の日常。  彼は毎朝、鏡に映る自分の顔を見て死にたいと思っていた。何も楽しいことなどない日常なのに、何故か、鏡の向こうのナオミチくんは笑顔だったからだ。それも人に媚びるクソみたいな笑顔。いじめないでね、俺はこんなにイイコだよ。そう言っている顔だった。  意味を見つけられない日常、そして気味悪いくらい安穏な家庭。彼は怖かった。いじめられるのが、ではなく、そういうぬるいものにうずもれて薄まっていくだろう自分自身が。  だから格好が悪いのを承知の上でその世界からしっぽを巻いて逃げ出した。そうしてたどり着いたのが天窓のある、あの殺風景な部屋だった。  さて、少年が必死に逃げ込んだこの世界はどんなものか。  その部屋で彼は目覚め、起きることを繰り返す。もう逃げ出したりはできない。あの鍵の赤いリボンでカラダを繋がれているのだから。  判っていた。初めから。  逃げ出した先に楽園があるなんて思ってない。何もかもを放り投げて逃げ出した卑怯者に明るい未来なんてあるわけがないのだ。
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