9.

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9.

 頬から染込んでくる冷たい感触に俺は目を覚ました。俺は無造作に床に転がされていたのだ。身体を動かそうとして、縛られていることに気付く。  手は背中に回されて、足は足首のあたりをきつく何重にも縛られていた。救いは口を塞がれていないことぐらい。だが最悪には違いない。  俺は鈍い痛みの残る身体を無理やり動かして、周囲の状況を観察した。ここは屋内だ。周囲には誰もいない。辺りは薄暗く、いやに広く埃っぽい場所だ。天井は高い。そこにいくつか付いている蛍光灯の光が、その高さ故、下まできちんと届いていないようだった。ここは倉庫か。  そう思った時、エイミの言っていたアキラの死の状況を思い出した。  倉庫で首を吊っていた……。 「お目覚めかい」  明るい声がして、どこからともなく例の中年男が現れた。何もない所から不意に現れたようで、俺は微かに恐怖を感じた。初めて会った時からそうだった。この男には影がない。生きている人間の立体感というものがないのだ。俺は自分の中に湧き上がってきた恐怖を悟られまいと、あえて大声で言った。 「あんた、誰だ! 俺をどうする気だ! この縄を解け!」  わんとあたりに声が響いた。それに気分を害したらしく、中年男は微かに顔をしかめる。 「うるさいのは好まない」  そう言うと少しの躊躇もなく、鋭い蹴りを俺の腹に打ち込んだ。目がくらむようなその痛み。胃の辺りがこみ上げてきて俺は胃液を吐いた。苦く酸っぱい液が、白いシャツの胸を汚す。だがそれにかまっている余裕はない。痛みに身体をくの字に曲げてあえぐ俺の頭を、男は無造作に掴み上げた。そしてむりやり自分の方に向かせると何もなかったように優しい口調で言った。 「痛かったよね? 君が我がままだからだよ。……私は暴力があまり好きではないんだ。だから協力して欲しい。君も早くここから出たいだろう」  俺はとりあえず、頷いた。従順にしておいた方が今はよさそうだ。男は満足そうに笑うと言葉を続けた。 「いい子だね。それでは素直に質問に答えてくれ。いいね? 嘘をついたらとても後悔するよ」  そこで一呼吸おくと、ゆっくりと言った。 「金はどこにある?」  ……金?  予想外の質問に俺は呆然とする。金って……何のことだ? 「おいおい、約束したろ? 素直に答えると」 「……待ってくれ。金って」 「とぼけても無駄だよ。君は森の恋人だろう。この札が証拠だ」  言って、彼は一万円札を俺の目の前に広げて見せた。それは森さんが失踪前夜、俺の手に握らせたあの札だ。俺が気を失っている間にポケットから抜き取ったのだろう。だが、その札がどうしたと言うのだ? 「これは君の金だろう。森が君にくれた、そうだな」  俺は一応、頷く。それは本当だから。だが、恋人だというのはとんでもない誤解だ。俺は人違いされてここに拉致されたのか。 「……そうか。森は君にはこの金の出所を教えなかったようだな」  じっと俺の表情を観察した後、納得したように男は言う。そしてやっと頭から手を離した。俺はできるだけこの不気味な男から離れようと身をよじったが、既に手足はしびれて感覚がなく言うことを聞いてくれない。体力も精神力も限界に来ている。気を張っていないと気絶しそうだ。今意識が無くなったりしたらこの男に何をされるか判ったものではない。俺はきっと男を見返した。 「……面倒だが、仕方ないな。君にも事の深刻さを知って貰った方がいいだろうからいきさつを説明しよう。まず、この札だ」  彼は指に札を挟んでひらひらさせた。 「これはある人の金だ。札には番号が打ってあるだろう。それで認識できる。後、この染み。これは血だ。誰の血か? そう、君の恋人、森くんの血だよ」  だから、恋人じゃない! そう言いたいのを我慢して俺は男の顔を見続けた。いつも笑っているような細いその目は暗い光を宿している。そこから仄見えるのは狂気だろうか? 少なくともこの男は今のこの状況を楽しんでいる。俺はここで殺されるのか。そう思った時、俺は確信した。アキラもこの男に拉致され、こんな倉庫に連れ込まれて殺されたんだ。だけど、アキラはどうして……彼も恋人と間違えられたのか? 「……森くんはね、一言で言えば、泥棒をしたんだよ。彼がこの金、ああ、勿論、一枚じゃないよ。もっと大金だ。それを盗み出した時、怪我をしてここに血が付いたものらしい。彼、怪我をしていただろう?」  言われて思い当たるのは、あの夜、月光の中で見た右手首の包帯。俺は小さく頷く。 「私は金の持ち主に泥棒の始末と金を取り返すことを頼まれたんだ。半分は済んだ。後半分を解消するには君の協力が必要でね、乱暴な手段だったが、ここに来て貰ったんだ。これで自分の置かれた状況が飲み込めただろう?」  俺は目を伏せる。この男にこのとんでもない間違いをどう説明すればいいのか。 「さ、喋ってくれないかな? 金はどこにある? 森くんは持っていなかったんだよ。彼は何も喋らずに死んでしまってね、困ったよ。そこで調べてみたら彼は天涯孤独の身で身寄りがない。だが、唯一、恋人がいるらしいことが判った。あの『ガーネット』という店に出入りしている男娼だとね」
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