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教室に戻ると礼は、先ほどと同じように本を読んでいる晴に、「ねぇ、みんなにはああ言ったけど本当は分かってるんでしょ?なんで黙ってたの?」と、尋ねた。
晴は少し驚いた顔で「さすが礼。気付いてたんだ。」と軽く笑う。
私が気付くことも織り込み済みのくせに。礼には晴の先を全て知っているような態度は理解できない。
「当たり前でしょ。何年の付き合いだと思ってんの。」
「どうする?聞きたい?私は多分、知ったところで礼がもっと元気をなくすだけだと思うんだけど。」
晴は珍しく真相を話すことを渋った。しかも礼のことを気遣うような言い方をするのは珍しい。
「聞きたい。別に私が傷つくとか関係ないし。大事なのは犯人がわかる事だから。」
「そう言うなら。そうだね、何から話すべきなんだろ。まず…まず。この事件はただの偶然が産んだこと。悪意のある人はいなかった。つまるところ過失によって引き起こされたの。」晴は少しだけ言葉を切って、ゆっくりと「…絵を台無しにした犯人は、中田さん。根拠は、ちゃんとあるよ。」と言った。
礼は思わず、「おかしいよ」と声を上げそうになった。高ぶる気持ちを押し殺して言葉を絞り出す。
「中田さんは主役でこの舞台のためにずっと練習してきたんだよ、それなのにこんな台無しにするような…」
言ったでしょ、と晴が悲しそうに言う。これはただの事故、過失に過ぎないって。だからといって考えられない。何故中田さんがあんなことをしなければいけないのか。
「根拠があるなら説明してよ。納得がいかなかったら、中田さんのこと、いくらあんたでも謝罪してもらうから。」
「いいよ、まず何から話せばいい?」
「あんたの言った根拠。まずはそれが知りたい。」
「そうだね、右だけジャケットの袖の内側に濡れたあとがあったから、かな。」
「は?」もっと重要なことを言うと思っていたため、礼は表紙抜けてしまった。晴はそんな礼に構わず、話を続ける。
「中田さんは右利きでしょ…なら、荷物の持ち方から考えて、右手の内側の袖が濡れているのはおかしいんだよ。傘を持っている方の腕の内側が濡れるって有り得ないでしょ?」
「傘を持ってたのが左かもしれないじゃん」
礼は至極当然の疑問を挟んだ。
「それは無いんじゃない?相田さんが言ってたよね、中田さんは衣装のためにスーツを持ってきたって。現物も見せてもらったよね。」
「スーツなんてどっちでも…あ、そうか。」
「礼も分かったでしょ」晴が続ける。「スーツのカバーってハンガー部分が持ち手になるから肩にかけたりはできない。だから塞がってない方の手でもっていたはず。」
「でもさ、そもそもだけどさ、荷物を右手で持ってたとは限らないじゃん。なんで右手前提なの?」
「右利きの人は荷物を右側に持つことが多いんだけど…これはまぁ例外もあるから置いとくね。そうだなぁ…ちょっと礼には身近じゃないかもね。中田さんは電車通学だから右手に荷物を持っていると考えた方が自然なんだよ。」
「どういうこと?」
「うちの指定カバン、表側にをポケット付いているよね。それをわざわざ左で持っていたとすると、改札で手間取ることになるんだよ。ほら、たいていの人はあそこに定期入れ入れるからさ。」
なるほど。言われてみればその通りだ。改札は右手側にあるため、右手側に定期のついたカバンを持った方が合理的なのは間違いない。
「だからやっぱり左にスーツ、右にカバンと傘を持ったと考えるのが自然だよ。」
「じゃあ…中田さんが。でも、なんで…?」
礼の問いに、「なんで、は想像することしか出来ないよ。ただ、何が起きたか、はわかる。」と答えると、礼は少し置いて話し始めた。
「雨に濡れた訳ではないのに袖が濡れていた。しかも例えばトイレなら濡れるとしたら両手だろうに右だけだ。となると右袖だけ何かで汚れてしまい、袖口を洗ったんじゃないかと考えられる。あの絵にはよく見ると擦れたあとがあったでしょ?多分、通しの後でも中田さんは練習を続けた。そして、立てかけてあった絵に袖が擦れてしまったんだと思う。その拍子に表層の絵の具が剥げたりしたんじゃないかな。で、慌てて直そうとした。しかし禿げてしまった色は混色した色な上に手元には絵の具がなかった。そこで仕方なく、油で広げたんだと思う。セット製作を横でやってたんだから道具はあっただろうし、筆を持ってても誰も怪しまなかっただろうね。しかし、その結果、多すぎた油が周りの色を含んで垂れてきて、泣く肖像が生まれた。」
「そんな…そんなのただの事故じゃん…」
中田さんに非はない。悪い偶然としかいいようがない。
「だから何度も念押したでしょ、この件はただの過失、って。」
晴は肩を竦めると「このことをみんなに伝えるかどうかは礼が決めていいよ。」と言い、礼の目を真っ直ぐに見すえて問いかけてきた。
「礼は、どうする?」
fin.
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