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「不満そうだね」
八木に指摘されて、イヴはとっさに口を押さえていた。
「そんな顔してましたか、俺」
レーヴの控え室で、清掃担当の八木と二人、備品のアメニティを数えていた。休養に入ってからというもの、イヴは自分から掃除や配膳などの手伝いを買って出ている。
少しでも、人の役に立ちたいという気持ちがあり、一人きりでこもっていると鬱々としてしまう現実がある。
熱が下がり、蕁麻疹が消えても、天宮から接客はしないように言われている。プライベートでも、していない。
「不満というより、欲求不満?」
「え、マジで? そんな風に見えました?」
「嘘だよ」
「やめてくださいよ。そういうのは」
「いや、若い子を見ると、つい、からかいたくなるんだよね。かわいいから」
八木は温厚そうな見かけに反して、時々、思いもよらない爆弾を投下してくる。
「本当にやめてください。八木さんの冗談は、マジで心臓に悪いので」
「悪いね。こんな、ひねくれたオジさんが相手で」
「いえ」
とはいえ、イヴにとって、八木は気安い相手だった。
順当に歳を取った年配のΩと接する機会は、多くない。Ωにしかわからない、様々な苦労があったはずだが、八木はあっけらかんと笑っている。それだけで、イヴには励みになる。
「イヴもさ、若い時はいろいろ思うことがあるだろうけど、迷惑かけることを恐れないほうがいいよ」
「いや、でも」
「日本人はさ、他人に迷惑かけるなって教育されるけど、本当に誰にも迷惑かけない人っていないから。だから、その分をどこかで誰かに返せば、それで十分。肩身の狭い思いなんて、しなくていい」
レーヴの部屋に住んでいながら、天宮の好意に甘えて休むしかない、いまのイヴを気にしてくれている。
あれ以来、定期的に通院しているが、倦怠感や頭痛が治らない。強めの薬では副作用に悩まされ、弱いものでは効き目がない。これでは、以前のフリーターに戻ることもできなかった。
控え室にノックの音がして、天宮が入ってきた。
「八木さんの手伝いをしていたんですか。横にならなくて大丈夫ですか」
「もう平気ですよ」
「そう言って、いつも無理しているのではありませんか」
調理場に出入りしたり、トイレ掃除に精を出していれば、天宮の目に止まらないはずもない。
ばつの悪いイヴが頭を掻くと、八木が改まった様子で切り出した。
「実は、天宮さんにご相談したいことがありまして、来月いっぱい、お休みをいただけないかと。前から迷っていたのですが、イヴなら十分、私の代わりが務まるかと思いまして」
思いがけない提案に、イヴは目を見開いた。
天宮は少し考える素振りで、八木に問いかけた。
「八木さん、どこか具合の悪いところが、おありですか」
「いいえ。私はまったくの健康ですよ、おかげさまで。私の息子が、来月出産予定なのて、手伝ってやりたいと思いまして」
「そうでしたか。それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます。番の相手と入籍も住んでいて、向こうは使用人も大勢いるようなお屋敷なのですが、やはり、身内のほうが気兼ねないかと思いましてね」
「そうですね。一ヶ月の休暇で足りますか?」
「十分です。一人で育ててきた、一人息子の初孫です。ずっと、そばにいたら、離れがたくなりますよ」
八木は目を細めて、嬉しさと寂しさの入り混じった顔をしていた。
番の得られなかった八木が育てた、Ωの息子。その息子が、番であるαの子どもを産む。
複雑な、けれども誇らしさがあるのだろう。
「八木さん、おめでとうございます。でも、俺ではまだ、八木さんの代わりは務まりそうにないです」
「大丈夫ですよ。他にも通いのスタッフがいますし、業務なら問題なくこなせます。わたしも手伝いますから」
天宮がそう言って微笑むのを見て、イヴは渋々うなずいた。
一人でこもっているよりは、適度に体を動かしていたほうがよほどマシだった。
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