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弓原は、基本的に不器用なんだと、シーナは思う。
仕事熱心で、好きなこと、興味あることには、寝食忘れてのめりこむが、それ以外には神経が行き届かない。
シーナもそれほど気遣いが細やかなタイプではない。だが、弓原を見ていると、つい手を貸したくなる。危なっかしいというか、庇護欲をそそられるというか。年上の成功した実業家相手に言うことでもないが。
「なんだか、ムズムズする。花粉かなあ」
「もう? まだ真冬でしょ」
「いやあ、十二月にもなにか飛んでたよ」
「それ、いつまでですか」
「梅雨入りまで続くね。花粉症の特効薬、誰か作ってくれないかな。できたら、ノーベル賞ものなのに。いや、めちゃくちゃ儲かるだろうな」
弓原は顔をしかめて、しきりに鼻を啜っている。
「弓原さんの会社では、できないんですか?」
「無理無理。うちは、コンピューターウイルスなら退治できるけど、花粉症とかまるで関係ないからな。せいぜい、どこか研究なんかで有力な会社に投資するくらいだろう。いや、本当になんとかならないのかな」
何度も鼻をかむ姿を見て、シーナはふと、動きを止めた。まさか、とは思う。そんなはずない。そうは思うものの、否定しきれない。
「俺、昨日、友だちの家に行って、そこに子犬が二頭いたから、もしかして。でも、ちゃんと風呂入って、シャワー浴びて、服も着替えたんですが」
「それかも」
「え?」
「コートは同じの、だろ?」
弓原の指摘に、シーナは思わず両手で口元を覆っていた。
「ごめんなさい。俺、こんなことになると思わなくて、それで」
「仕方ないよ。そんなに気にしないで。いや、気になるんだったら、いまから一緒にお風呂入る?」
「……入ります」
うしろ頭を掻くシーナを見て、弓原は苦笑を浮かべた。
「なんか、人の弱みにつけこんだ悪代官の気分」
「お湯……張ってきます」
逃げるようにバスルームへ向かうシーナの背中には、調子の外れた鼻歌が聞こえてくる。機嫌が悪いわけではないらしいと思い、シーナはこっそり安堵を覚える。
弓原の家は、湾岸に立つペントハウス。シックな色合いのビルの低層階には幾つものオフィスがが入っている。テナント用の玄関とは別に設えてある高速エレベーターで最上階まで昇りつめると、ワンフロア丸ごとを押さえた豪勢な部屋が待ち構えている。
「もっと、都心の立地のいいところも考えたんだけど、海が見えるところが気に入ったんだ」
弓原は以前、そんな風に話していた。
夜景のきれいなオーシャンビュー。αではないけれど、やり手で、資産家で、やさしい男。なにより、シーナにぞっこんである。
シーナがリビングに戻ると、ソファによりかかって雑誌を眺めていた弓原が顔をあげた。
「ごめんね。なんだか、潔癖性みたいな男で」
「いえ。俺が、気づかなかったのが駄目だったんで。毛とか注意してるつもりだったんですが」
あまりに名残惜しくて、ルカの家で帰る間際までシロとクロを抱きしめていた。あれが原因だ。
「聞くところによると、毛だけが原因じゃないらしい。排泄物や分泌物にも反応するんだって。ぼくは犬も猫も嫌いじゃないんだけど、これっばかりは残念だね」
「いえ」
弓原とこうして家で会うようになったのは最近。レーヴの客として来てもらったほうがシーナの売り上げになるが、そうしたくなかった。
時間を気にせずに、二人きりで過ごしたかった。客とスタッフのΩという関係でいたくなかった。
レーヴはその辺りは厳格でないのがありがたい。
「弓原さん。お湯、湧いたみたいです。お背中、流しましょうか」
「その気持ちは嬉しいんだけど、先に洗ってきてもらえるかな」
「あ、すみません。なにやってんだ、俺。ホントに抜けてる。ごめんなさい」
弓原が鼻をグズグズさせているのは、シロとクロの毛のせい。シーナはまたバスルームに逃げこんだ。
弓原を意識するほど、チグハグなことをしてしまう。
好きだと言われた。
弓原の部屋に呼ばれて、プライベートでハワイの別荘にも同行した。
でも、まだ、それだけ。
客とスタッフの関係から抜け出したとは、言えない。
つきあっているようで、つきあっているとは言えない。弓原から決定的な言葉はもらっていない。
初めのうち、弓原はシーナにブランド物の腕時計を贈ろうとした。だが、あまりに高価なものだったので、自分には似合わないから、と断った。
弓原はなにをプレゼントしていいかわからないからと言って、シーナにお小遣いを渡すようになった。これで好きなものを買って欲しい、と。
そもそもレーヴで始まった関係だ。セックスと金銭の交換、その延長線上のお小遣いなのか。
それとも単純に、専門学校へ通っている裕福でないΩへの贈り物、あるいは施し。
もしくは、このお金でレーヴでのアルバイトを減らして欲しいという好意、か。
この中のどれが正解なのか、シーナにはわからない。
だから、まだ、気を許してはいけない。
洗面所の大きな鏡に映った自分の姿を、シーナはしばらく睨みつけていた。
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