912人が本棚に入れています
本棚に追加
/396ページ
頬へ触れる風に、春の香りが混じる。
街路樹すら排気ガスで枯れるような都心にあっても、カレンダー通りに季節が巡れば、それらしい気配が感じられるものらしい。少し体を動かしただけで、うっすら汗ばむほどあたたかい。
朝、イヴはいつものようにレーヴの片づけや清掃をこなし、早めに切り上げた。
ベッドに寝ているリリトは熱こそ下がったものの、変わらずに眠り続けている。それとも、よほど体力を消耗しているのか、なにか薬物を使われているせいなのか。明日になっても起きてこないなら、医者を往診させたほうがいいと天宮に言われている。
「くっそ、なんか合わない」
いつものジーンズにネルシャツを合わせてみたが、組み合わせに違和感を覚える。イヴはシャツを脱ぎ捨て、悩んだ末に、無地のTシャツ上に黒いジャケットを羽織った。鏡を見ると、少し背伸びした高校生みたいな少年が映っている。
男性のΩは、長身にはならない。体毛全体が薄く、イヴもほとんど髭が生えない。脛毛もない。なかには、下の毛の揃わない者もいるらしい。直接見たことはないが。
一般の男性用衣料より、女性もの、または子供用のほうがジャストサイズである。いまどきの子供服は、男子なら175までサイズがあるので侮れない。子供服の裾を折って着るのは結構な屈辱を感じるが、マナのように女物で通す気はないので、どこかで折り合いをつけなければならない。
着るもの一つで、思い悩む自分も腹立たしい。
初デートの子どもでもあるまいし、馬鹿馬鹿しい。相手は神蔵で、そもそも待ち合わせはレーヴの通用口だ。いまさら、取り繕っても仕方ない。とは思うものの、神蔵の隣にいて見劣りしないだろうかなどと、余計なことを考えるから、ますます迷い出す。
時計を確かめると、約束の十分前になっている。
スニーカーの紐を結ぶ。足先の汚れが気になる。昨夜のうちに洗っておけば良かったと思うものの、もう遅い。
眠っている少年に目をやり、イヴは部屋を出た。天宮が定期的に様子を見てくれることになっている。
「早いだろ、いくらなんでも」
通用口に出ると、すでに神蔵が立っていた。逆光でもシルエットですぐにわかる。イヴは小走りになって、神蔵の隣に並ぶ。
「用事が早く終わったんだ」
照れたように笑う顔が、年齢よりも幼く見える。普段はうしろに撫でつけている前髪が下りているせいかもしれない。
「じゃ、行こうか」
「ここから近いの?」
「うーん、地下鉄でひと駅少しだから、歩いていこうかと思って」
神蔵に促されて歩き出す。表通りに出ると、昼間の日差しがまぶしくてイヴは目を細めた。鼻がツンとするのは、花粉か排気ガスのせいか。
「体の、その、具合はどう?」
不意に訊かれて、とっさに反応できずに、イヴは口ごもってしまった。前回、神蔵と会った時のことを思い出して、赤面してしまう。
あれは、発情期の夜だった。
お互いにまともじゃなくて。言葉を交わすのももどかしく、ひたすらに体を交えた。
「そんな無防備な顔されると、俺が悪いことしている気がする」
「ば、バカッ」
思っていたよりも大きな声が出てしまい、通りすがりの老人が不審そうな目で、イヴと神蔵を振り返る。
「……ばか」
「だから、そういうところが……たまらないんだよ」
今日の神蔵はおかしい。いや、おかしいのはイヴのほうか。
先から、心臓のあたりが落ち着かない。
最初のコメントを投稿しよう!