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『二階堂企画 代表 二階堂智之』
その後に続くのは、住所と電話番号とアドレス。
ルカはもらった名刺を手に、知らない街を歩いていた。レーヴとは離れた繁華街の裏通りを歩いているのは野良猫くらいしかいない。
正午を少しまわったところだった。夜にはどこよりも賑わうである街は、まだ目覚めていない。電柱の影に、短くなった煙草の吸殻が散乱している。どこかの酔っぱらいが漏らした吐瀉物も。
「にかいどう、ともゆき、さんって言うんだ」
ずっと、名字しか知らなかった。本名かどうかもわからなかったが、名刺を見る限り、正真正銘の本名のように思われる。なにをしているかもわからない会社の代表。気になるけど、きっとルカからは聞けない。
「ここ、だよね」
古ぼけて傾いたような雑居ビルの一画に、二階堂の事務所はあった。少しためらってから、中へ入っていこうとすると、黒ずくめの大柄な男が、細い路地から飛び出してきた。
衝撃とともに、アスファルトの上へ投げ出される。したたかに膝をうちつけた。手のひらの皮も擦りむいて、血がにじんでいる。
ぶつかってきた男は、すぐに立ち上がると、乱暴にルカの顎をつかんだ。
「おまえ、Ωだろ?」
「……っ!」
「キレイなツラしてんな。こんなところで男漁りか?」
男は顔を近づけると、大げさに鼻を鳴らした。体に染みついた煙草の匂いが漂う。
ルカは息もできずに、その場に凍りついていた。
「あんま、臭わなねえな。Ωってのは、女くさい臭いで、男を誘惑するんだろ?」
「や、やめて!」
Ωへの、いわれのない差別は、いつものことだ。けれど、この瞬間、本能的に危機を感じ取っていた。人気のない裏通りで、どこかへ引っぱりこまれてしまえばオシマイだ。
そのまま乱暴されるか、仲間を集めてまわされるか、下手をすれば売り飛ばされる。いくら法律で禁じられていても、地下組織にはΩを奴隷のように売買する市場があると聞く。
初めて、路上で襲われた日のことを思い出す。
二度と、あんな思いはしたくない。
「なんだよ。Ωは、突っこまれるのが大好きなんだろ?」
「ちがう!!」
誤解されてばかりだ。
だって、Ωだから。
普通の人間じゃないから。でも、Ωだって人間だ。
肉食獣のような男に、鼻の頭を舐められる。気持ち悪さに鳥肌が立つ。嫌だ嫌だ嫌だ。触れられるのも嫌だ。息を吹きかけられるのも嫌だ。
「いい顔してんじゃん。もう、感じてきた?」
男は口の端を歪めて笑うと、ルカのうなじに手をかける。濡れた手のひらの感触に、怖気が走る。
「ここさ、噛みつかれんのがイイんだろ?」
「ちがっ、いやあ!!」
なにも、わかっていない奴に、ボロ布のようにふみにじられるのは我慢ならない。
ルカの目に涙がにじむ。
「なに、さらしとんじゃ、ボケがあッ!!」
鈍い音とともに、黒ずくめの男がふっとんだ。
ルカは大きく目を見開いていた。
「おまえみたいなチンピラが一番タチ悪ぃんだよ。二度と、その汚い手で触んなや」
ドスのきいた声を聞いて、転がったままの男が縮みあがる。
「に、二階堂さん?! あの、す、すいませんでしたッ」
あわてて体を起こすと、男は脱兎のごとく逃げ出した。
ルカは何度も目を瞬かせて、助けにきてくれた男を見上げた。ビルの隙間から差しこんだ光を背負った二階堂が、手を差し伸べている。
「ルカ! 大丈夫? ケガはない?」
「な、ないです」
「ごめん! アタシが迎えに行けばよかった。用事なんてほったらかして」
「あ、あの、」
先のチンピラは、二階堂の顔を知っていた。どういう関係なのだろう。
「事務所は、すぐそこなんだ。ごめんね。お姫様抱っこしてあげられなくて」
「……けっこうです」
茶目っ気たっぷりに笑う二階堂に続いて、ルカは曇りガラスのドアをくぐった。
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