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傘を少し傾けて、ライラック色のビルを見上げる。ルカはしばらく眺めてから、小さくため息をついた。
表通りに面している立地なので、荒んだ雰囲気はない。日曜日の午後、しのつく雨がアスファルトを濡らしている。
「どうしよ……」
部屋の内見も付き合った。引越しの日だって。
合鍵を握りしめた手はうっすらと汗ばんでいて、慌ててハンドタオルで湿気を拭う。いるかもしれないし、いないかもしれない。事務所にいるか、それ以外か。
エレベーターを下りて、部屋の前に立つ。ルカは深呼吸のあとに、インターフォンを鳴らした。
ゆっくり十まで数えて待ったが、返事はない。もう一度、指を押す。部屋の中からは、なんの気配もない。いないのかもしれない。二階堂は忙しそうな人だ。
手の中にある合鍵を見つめる。これを渡されているということは、勝手に入ってもいいという許可だ。だけど、二階堂のいない部屋に一人で入るのは勇気がいる。
鍵を見て、ドアを見て、また鍵を見る。
帰りたいけど、帰りたくない。ルカは未練がましく、開かないドアを見つめる。
でも、ここまで来たのに、このまま帰りたくない。
意を決して、鍵穴に合鍵を差しこむと、ドアの向こうで気配がした。ルカが手を引っこめるより早く、内側からドアが開いた。
見るからに湯あがりの二階堂がバスローブ一枚の姿で、大きく目を見開いている。
「……来ちゃった」
押しかけた形なのが決まり悪く、ルカは言い訳するように、うしろ頭を掻きながら後ずさる。
「合鍵渡したんだから、いつでも入ってくればいいのに」
「ごめんなさい」
濡れた頭にタオルを載せたままの二階堂が、苦笑いで答える。
「謝ることはなにもないよ、ルカ。とにかく、部屋へ入って。散らかってるけど」
「お邪魔、します」
「いつまで、お客さん気分なの? アタシは一人で盛りあがってただけ?」
「いえ、あの、……ただいま?」
「おかえり」
引越しの日以来、訪れていなかった部屋には、すっかり生活の匂いがした。冷蔵庫やレンジ、テレビやソファが並び、ゴミ箱にはティッシュが、シンクには空き缶が転がっている。人が暮らしている部屋の落ち着きがあった。
「昨夜、ちょっとトラブルがあって、ここへ帰ってきたのは朝で、さっき起きたところ」
「すみません。なんだか、間が悪くて」
「ルカが謝ることじゃない。不規則な生活を変えられないアタシが悪いんだから」
そう笑って、熱いお茶を煎れてくれる二階堂が、なんだか眩しく見える。
どうして、息が苦しいんだろう。会いたかった人に会えたのに、胸が引き絞られるように痛くなる。
「ルカはやさしいね。親御さんを困らせたくなかったんだろう」
「いえ、あの、」
親に理解してもらえるとは思っていなかった。ここへ来ることができなかったのは、勇気がないだけで。
「二階堂さん。僕、やっぱり、ここに置いてください」
「無理しなくていいんだ、ルカ。急がせるつもりはないから」
濡れた前髪の先からしたたり落ちる雫が、鼻の頭に当たる。
唐突に、好きだと思った。無造作に雫を拭う動作にさえ惹かれる。惹きつけられる。
ルカはソファから立ち上がり、ふらふらと二階堂に抱きついていた。
「こらこら」
言いながら、固い腕でルカのことをしっかりと受け止めてくれる。
この人しかいない。誰がなんと言おうと、他の人なんて考えられない。
ルカは、衝動のままにつぶやいていた。
「……抱いて、くれませんか」
こんなこと、誰にも言ったことない。発情期の最中は、言葉もなく、ただ欲求を満たすために交わっていたから。
「二階堂さん、お願い……」
みっともないとか、はしたないとか、恥ずかしいとか。ルカの中の常識はどこかへ行ってしまったみたいで。ただ、目の前の男にすがりついていた。
「だって、いまは発情期じゃないだろ。だから、」
「関係、ないです。僕はいつでも、二階堂さんが欲しい……」
「煽るなよ、ルカ」
お湯であたたまった二階堂からは、とてもいい匂いがする。
肉厚の手のひらで髪を掻き混ぜるように、頭を撫でられる。いい子、いい子と、子どもにするみたいに撫でられて、ルカの不安は加速する。
子どもじゃできないことを、して欲しいのに。
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