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入り口がわかりづらい、いかにもそれらしいホテルのネオンが広がっているのを見上げて、有馬は急に不安を覚えた。
「ちょっと、大丈夫なんですか。ここって、そういう場所じゃないですか」
二階堂と二人で入るような店は見当たらない。
「ここの地下」
「え?」
うっかり見過ごしてしまいそうな路地をさらに曲がって、ライブ会場のようなシックなエントランスを通る。間接照明がぼんやりと光っている。
二階堂に促され、有馬は黒く塗られた階段を慎重に降りていく。
降りきった先の扉には、シルバーのプレートがかかっていて、洒落た字体で店の名前らしき横文字が彫られていた。
「驚くなよぉ、有馬チャン」
二階堂は、ためらいなく扉を開いた。
そのまま、後に続いてしまった有馬は、やはり飲み過ぎていたのだろう。
「いらっしゃいませ」
中は普通のショットバーのようだった。
二人に声をかけてきたのは、光沢のある黒シャツにグレーのベストを合わせた、なんとも妖しい雰囲気のある麗人だった。
黒髪をオールバックにして、首のうしろで束ねている。男装の美女にも見えるし、女顔の美男子にも見える。異様に白く華奢な指が、グラスを磨いている。
「やあ、こんばんは。アタシは予約で、こっちは友達の有馬チャン」
軽い調子の二階堂を受けて、黒シャツが恭しく頭をさげる。
「ようこそ、レーヴへ。有馬様は、当店のご利用は初めてでいらっしゃいますか」
「え、あ、はあ」
黒シャツが醸し出す、一分の隙もない空気感に気圧されて、有馬は曖昧に頷いていた。
目をそらすように店内を見渡せば、カウンターでカクテルを傾けている男性客が一人、カウンターの内側に立っている大柄なバーテンダーが一人。
「二階堂様、新しいお客様のご紹介を、ありがとうございます。ご予約の時間より少し早いのですが、いまからお部屋のほうをご案内できます。いかが、なさいますか」
「お、もう、いいの? ルカ空いてんの? じゃあ遠慮なく」
二階堂は口の端に笑みを浮かべると、あからさまに落ちつかなくなった。
「こちらでございます」
会計らしきものを済ませ、黒シャツからカードを受け取った二階堂は、有馬の肩を朗らかに叩いた。
「今夜はアタシのおごりだから、めいっぱい楽しんで、な」
そう言うが早いか、軽やかな足取りで店を出て行った。
「改めまして、有馬様。わたしから、当店レーヴの説明をさせていただきます」
「はあ」
「当店は、Ω男性をスタッフに取り揃えたデートクラブでございます。年齢、容姿も多様なスタッフがおります。また、発情期の者もそうでない者もおりますので、遠慮なくご要望をお申しつけください」
「……え、ええっ?!」
有馬は思わず裏返った声で叫んでいたが、店の奥に座っている客も、その前に立っているバーテンダーも目線一つ向けてこなかった。
「有馬様が驚かれるのも、ごもっともでございます。ですが、存外、需要があるものです。お客様にとっても、当店スタッフにとっても」
不意に、妖艶に微笑む黒シャツは男性なのだと気づく。彼もΩだろう。
絶句した有馬は、その場に立ちつくしていた。
Ω専門のデートクラブ。
脳天気な頭で二階堂についてきた、自分の浅はかさを呪うしかない。
当の二階堂は今頃、馴染みの相手とよろしくやっているらしい。
「難しく考える必要はございません。発情期のΩが、自分ではどうにもならない苦しみで、いま辛い思いをしている。それを、少しだけ手助けしてくださいませんか」
「でも、僕は、そんな、」
「先ほど、二階堂様が有馬様のご利用料金も用立てていかれました。有馬様、ここは二階堂様の顔を立てるために、形だけでもご案内させていただけませんでしょうか」
黒シャツに重ねて説得され、有馬は返事に窮してしまう。
Ωは嫌だ。
そう言おうとしたが、言葉にはできずに口ごもるだけだった。
第二の性を理由にした差別は、法律で禁じられている。明文化されているということは、法があってなお、社会的な差別がなくならないということだ。
「お部屋は、この上の二階になります。ご案内いたしますので、わたしのあとに、ついていらしてください」
黒シャツは優雅な足さばきで有馬の隣に立つと、そっとドアを開けた。
なにか、不思議な魔法にかけられたようだった。
間近で見ると、肌の美しさがさらに際立つ。発情期の匂いこそしないものの、ずっと二人きりでいれば、なにか間違いを起こしてしまいそうだった。
気がつけば、誘導されるままに階段を昇り、エレベーターに乗り換え、突き当たりの部屋の前にいた。
「こちらが、この部屋のカードキーでございます。有馬様にも一度、体験していただければ、当店のサービスをお気に召していただけることと思います。それでは、わたしはこれで」
美貌の黒シャツの背中が見えなくなってから、有馬はようやく我にかえった。
「どう、しよ……」
キョロキョロとまわりを見渡しても、判で押したような同じ形のドアが並ぶばかり。
一見すると、普通のマンションの部屋のようだが、ドア脇に設えられたカードキー認証システムは最新のもので、まわりの外装には不釣り合いだった。
黒シャツはいない。二階堂もいない。ここで有馬が踵を返せば、何事も起こらない。
「あ、鍵か」
このカードキーをこのまま持ち帰るわけにはいかない。部屋で待つスタッフとやらに渡すか、地下の店まで引き返すか。
ドアの前に立っている限りでは、発情期のΩ特有のフェロモンは感じられない。
部屋の中に対策がされているのか、スタッフのΩが制御作用のある薬を服用しているか。もしくは、発情期ではない、か。
しばし考えこんでいた有馬は、ええい、ままよとばかりに、カードキーを押し当てた。
錠がまわった音に気づき、ドアノブをひねると、いとも簡単に扉は開いた。
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