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「まずいよな、これは」
シーナは唇だけを動かし、声に出さずにつぶやく。いまにも降り出しそうな空を仰いで、ベンチに座りこむ。
目の前にそびえ立つビルは天に刺さるほど高い。シーナがいるのは正面入口だが、出入りできる場所は他に幾らもある。ここを通るとは限らない。そもそも、昼だからといって外に出てくるとは限らない。
時計は正午を指していた。授業の空き時間に、シーナは鞠村の在籍する、桑井商事の本社へやってきていた。
ポケットには昨夜、鞠村が忘れていった名刺入れが入っている。だが、勤め先まで届けに行けば、不審に思われるだろう。間違いなく、天宮に叱責される。店で知り合った客のもとへ、勝手に押しかけるなんて、クビになってもおかしくない。
「でも、なあ」
どうしても、この目で見てみたかった。Ωの鞠村が、αやβにまじって普通のサラリーマンをやっている姿を確かめたかった。
シーナ自身は、普通の勤め人になりたいとも、なれるとも思っていない。自分にはとても無理だとわかっている。
鞠村とシーナでは、なにが違うのか。わからないから確認したい。
昼休みと思しき、老若男女の人々があちことのビルから出てくる。シーナが座りこんでいるベンチは、石畳の広場のものだ。適当な木陰があって、あちこちにベンチがあって、ランチを売りに来たボックスカーが見える。
晴れていれば気持ちがいい広場だが、曇天のせいか足早に過ぎ去る人のほうが多い。
「あ……」
額に雫が当たったと思うと、一気に降り出した。シーナは慌てて傘を開き、ベンチをあとにする。我ながら無謀なことだと反省する。無駄足を踏んだが、学校までは十五分も歩けば戻れる。地下鉄を乗り継ぐより、歩いたほうが確実だ。
もう一度だけ。自分に言い訳するように、桑井商事本社ビルのまわりを歩きだした。スーツ姿の男女の一団に出くわす。世間に必要とされている、まともな人たちだと思うと、シーナの足はすくんだ。Ωの自分とは違う。健康で、有能な、価値のある人材。
傘に隠れるようにして、やり過ごす。こんなのは、やっぱり馬鹿げている。落ちこんで、嫌な思いをするだけだ。だいたい、どうして、こんなところに来てしまったのか。名刺入れだけなら、いまからでもレーヴへ届ければいいのに。
「……っ」
思わず声を上げそうになったが、必死にこらえた。いま、通用口から出てきた二人連れの若い男。そのうちの小柄なほうが、鞠村だった。
体型に合わせた地味なスーツを身につけ、前髪を固めて眼鏡をかけていても、シーナにはわかった。昨夜、情熱的に抱きあった体くらい、見分けがつく。
「いいのかな。その、僕なんかが、ついていっても」
「もちろん。是非、来て欲しい。きっと、鞠村も気に入ると思うよ」
「ごめん。なんだか、僕が、気を遣わせたかも」
「とんでもない。俺のほうこそ」
痒くなるくらい、もどかしい会話がシーナの耳に入ってくる。
なんだ。そういうことか。
腑に落ちてしまえば、それだけのこと。
鞠村は、連れの男に恋している。
そっと、横顔を盗み見ただけでもわかる。彼はαだ。上背があり、胸板も厚く、スーツの下の体は引き締まっているだろう。高い鼻梁に、染み入るような深みのある声。
悔しいけれど、似合いの二人だ。ちくしょうめ。
シーナが隠れることもない。鞠村の意識のすべては、隣の男に集中していて、シーナになんか気づくはずもない。
「なんでだよ」
あんな素敵な男の隣にいて、頬を赤く染めている鞠村は、どうしてレーヴに来るのか。わざわざ、シーナを指名するのか。
次第に大きくなる雨音を聞きながら、シーナは深々とため息をついた。
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