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「どうかした? 顔、真っ青だけど」
午後の講義には少し遅刻した。シーナは音を立てないよう、細心の注意を払って教室に滑りこみ、ルカの隣に座った。
ルカこと春風は、専門学校で知り合った同じΩだ。オメガクラブのレーヴをルカに紹介したのはシーナだ。けれど、ルカは早々にβの客と恋に落ち、実家を出て男と暮らしている。学校の友人からは、ハルカと呼ばれている。
「いや、べつに」
とりあえず、ノートを取り出して開き、その上につっぷす。最後列にいると、講師の声が遠い。アニメの歴史? 興味ない。
なんで、こんなところにいるんだろう。
家を出る口実があれば、なんでもよかった。勉強は苦手だし、スポーツもダメ、音痴で不器用。得意なことなんて、なにもない。
アニメは好きだけど、自分が声優になれるなんて思ったことはない。ただ、近づいてみたかった。現実ではない、新しい世界を創り出す現場へ。
「具合悪いんだろ。もう、帰ったほうがいいって。フラフラするなら、僕が家まで送るから」
子守唄のように眠たい講義は、いつのまにか終わっていた。
ルカはやさしい。あたたかい一般家庭で大切に育てられた、いい子なんだろう。同じΩとはいえ、シーナとはまるで違う人種なのだと思い知る。
実家には、一生帰るつもりはない。帰る場所だとも思っていない。あそこでなければ、どこでもいい。実家、母校、故郷、なにもかも最低だった。あの環境から逃げたかった。
「むしろ、腹減った」
気がつけば、昼を食べそこねていた。先ほどから、腹の虫が大変なことになっている。ジュース一本流しこんだくらいじゃ、血糖値はろくに上がらない。
「なにか食べて帰る?」
「パンケーキ五枚重ねで」
「本当によく食べるよね、シーナは。まあ、いいや、行こうか」
前にも行ったことのあるカフェは、駅前の大きな図書館に併設されていて、客層も偏りがない。学生カップルも、ベビーカーを押したママも、シニア世代もまじっていて、銀髪にピアスのシーナが居座っていてもそれほど違和感はない。
パンケーキは二枚も五枚も同じ価格だ。前回、シーナは五枚をたいらげた後に、二枚でも多いとぼやいていたルカの残りを引き取った。おいしものは、いくらでも入ると胸を張ったら、ルカは軽くのけぞって遠い目をしていた。
外は夜かと錯覚するほど真っ暗だった。
バケツをひっくり返したような激しい雨が、アスファルトを叩きつけている。傘が役に立たない。
シーナとルカが駅前に到着する頃には、スニーカーが絞れそうなほど濡れそぼっていた。
スマホと鞠村の名刺入れは用心してビニール袋に入れておいたから無事だが、講義のノートやプリントは湿気でふやけている。
「この格好で、店には入れないよね」
「ええっ? 俺は食うぞ。いますぐ、十枚でも食べれる」
「まずいよ。ジーンズも濡れてるし、椅子座ったら水たまりができるって」
ルカが小さなクシャミを漏らす。歩いている時は気づかなくても、濡れた
服に体温を奪われていくのを感じて、シーナは舌打ちした。
「ったく、しょうがねえな、もう。うち来いよ、ここからすぐだから。パンケーキは今度な」
誰も招いたことのない部屋だった。高校の卒業式の日に、家を飛び出して着の身着のまま、事前に調べていたレーヴへ飛びこんだ。
シーナの事情を聞いた天宮が用意してくれた部屋は、最寄駅から徒歩五分、築三十七年の中古マンションだった。ごく狭いワンルームだが、規模の割にセキュリティーがしっかりしているところがありがたい。
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